境界線の浸透
すべてを「連休後」に設定していたために、様々な要件が日常に浸透している。複数の会議と複数の授業を終えると、どれがどのタスクだったのかを見失ってしまう。明日も今日と同じくらい忙しいかもしれない。
寺山修司が生きており、令和の時代にアイドルユニットを作る物語を読んだ。中森明夫は多様なジャンルを横断する寺山の活動を現代に描き出している。文体模写にとどまらず、現代文化の中に寺山を置き直す思考実験がリアルに表象されており、極めて刺激的な作品であった。
寺山修司の試みは「物理的媒介からの逸脱」と言い直せるかもしれない。演劇において舞台は観客に作品を提示する物理的媒体である。仮にそれを逸脱し、役者が客席に流れ込み、客が舞台に上ると、両者の関係は一転する。映画の登場人物が映像の中にいる自分を自覚し、観客を眺めているかのようなセリフを発することで、スクリーンは従来の機能を喪失する。しかし本作において、令和の時代には寺山の実験的な試みがすべて文化的に定着しており、従来の寺山的手法において逸脱が起こりえないことが示される。それに気づいた寺山とアイドルユニットが次なる作戦を考え……と、物語はこのように進んでいく。
見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし(田園に死す)
この詩において寺山は世界と自身を繋ぐ媒介である「目」を切り開き、新たな地平への接続を試みる。『アンダルシアの犬』の一幕を翻案したようなこの作品すらも、メタバースが一般化した現代においては革新性を失う。「会いに行けるアイドル」が偶像性を取り払い、芸能人の舞台裏がSNSで拡散される現在、「目」はどこまでも拡張していく。
僕らの忙しさは、目を拡張させるPCやスマホと無関係ではあり得ない。この便利すぎるものを媒介し、僕は容易に研究と教育と業務を進行させる。同一画面上に複数のブラウザやアプリケーションが開かれることで、仕事の境界線は容易に超えられてしまい、一つの試みは他の仕事へと浸透する。寺山は奇妙な仕方で境界を超え、スクリーンの内と外を接続した。
その奇妙さは、今や僕らの日常だ。僕らは簡単に別々のものを繋いでいき、目に見えないはずのものを目撃する。寺山の物語を読みながら、現在の日常がかつてはおどろおどろしく表象されていたことを思い知る。僕の疲労は容易く境界線を浸透することを異常とも思わずにいる歪な精神と無関係ではない。