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日常を物語化する

研究会運営、ラウンドテーブル企画、個人発表、国外出張などがすべて中止となったので、膨大な暇ができた。次々と迫る仕事を順番にこなし、家事・育児や運動を維持することがちょっとした自慢だったのだが、超人アピールもウイルスには勝てない。健康なる二次被害である。

そのような自己アピールは、所詮Facebookのフィードを彩る「ドヤリ」に過ぎない。なかば自覚的にそのようなキャラクターを演じ、様々なものを巻き込んで「波」を作り上げるのが楽しかったが、環境には逆らえないものである。

この間隙を何かで埋めることは簡単だったが、十日ほどあえて「何もしない」という選択を取ってみた。子供を保育園に送り、あとは自宅で手当たり次第に本を読む。研究書ばかりではなく、これまで置き去りにしてきた2000年代の批評、手をつけられずにいた小説、俳句関連の書籍など。多忙の中でも本を読むペースは維持しようとしていたが、それでも膨大な読み残しがある。

あえて読み急がず、時間をかけて読書をし、昼は妻と外食ついでに散歩に出かけ、うとうとしてきたら居眠りをして、なるべく早めに子供を迎えに行く。あえて節酒し、夜は息子と遊んで寝る。本来はあり得ない生活だが、「国難」を言い訳にしてペースを格段に落とした。

結局のところ、「挑戦」という言葉でコーティングした過重労働は「日常を非日常化することにより人工的な磁場を作る」という行為である。それはそれで猛烈に面白い。だが日常を物語化する手段は「非日常化」だけではない。プルーストであればおそらく半過去で語るであろう習慣化された日々の中にも物語性は潜んでいる。それを改めて確認するためのペースダウンだ。

絶版の水原秋櫻子の『近代の秀句』がようやく適正価格で出回っていたので、さっそく購入し、俳句鑑賞を学ぶ。正岡子規の「写生」以降、風景を写実的に切り取る作風が隆盛したわけだが、それは安易な写実主義ではなく、風景を眺めるものの「視点」を内在させたものである。秋櫻子の鑑賞は、俳句を通じて作者の「視点」に同化することを意味する。それは風景が自分にとっての唯一無二のものとして立ち現れる瞬間であり、「物語」はそこから始まる。

このように「唯一無二の奇跡的な印象」を僕は「アニミズム的印象」と呼ぶ。

アニミズム的印象を通じた「日常の物語」は「俳句と鑑賞」という形で他者と交換可能だ。これはプルーストが提示する芸術のあり方とも合致する。すなわち作り手が見出す美を、鑑賞者の目で追体験することで、「魂の交流」が行われるのである(第五篇『囚われの女』、ヴァントゥイユの《七重奏曲》の描写を参照)。

自他の対立は世界の各所で生じている。「個別」を志向する勢力が打ち立てる「壁」、そのカウンターパートとなる「普遍」が差異を消滅させることで生じる「壁」がある。グローバル化の世界を浮遊する「観光客」は、21世紀の世界で大きな可能性を秘めた存在であったが(東浩紀『ゲンロン0』参照)、疫病の流行の前でその危険性が指摘され、入国禁止や隔離という言葉が社会を飛び交っている。この危機は我々が意識せずにいた「壁」の存在を可視化する役割を果たしている。そのような混乱の中で、不要不急の代名詞とされた文化の可能性が新たに開かれている。そのコアが「日常の物語化」であり、印象の奇跡性を適切に表現する「ことば」が求められているのだと考えている。

十日間ほど、読書と散歩(吟行)で「日常の物語化」を意識的に行うことで、「非日常」を求める習慣に少し横槍を入れてみた。ウイルス騒動後にはまたタスクが戻り、「非日常化した日常」が始まるのかもしれないが、それにどのように対峙するかは今は決めかねている。

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