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俳句:モノとコトの関係を結び直す

昨年、唐突に俳句を始め、一日一句のペースで詠んでいます。作品はInstagramに挙げており、うち何点かを句会に投句しています。

モノとコトに関する議論が様々なところで展開されています。宇野常寛氏の『遅いインターネット』では、20世紀のモノベース(豪華なもので自分を飾り、生活を彩る)からコトベース(体験をFacebookやInstagramにアップする)へと移行していることが指摘されています。スマートフォンの普及により、自分が中心となる物語を公開することが容易になったことに付随する現象と考えるとわかりやすいです。

モノとコトの関係についての議論は実に多様ですが、僕は一貫して「動詞的」であることを重視しています。

「モノ」「コト」はいずれも「名詞」です。モノは「物」ですから当たり前ですが、コトはもともと動的な現象(動詞的)であったはずです。それが固定化し、SNS上で他人に対して「体験の量・質」のアピールに還元されたときに「名詞化」が始まると考えています。

『NHK俳句』に連載している長嶋有氏が「俳句誌の佳作」に言及していました(2020年3月号)。投句が「佳作」として選ばれる数を競うことに対する警鐘だと理解していますが、佳句の認定が「上達を誇る手段」になってしまうことには確かに問題があります。わかりやすく述べると「選ばれることにステイタスを感じ、そのための作句が目的となってしまう」という現象であり、藤田湘子も同様の危惧を述べています(20週俳句入門)。

俳句に限らず、詩情(あるいは芸術性)の出発点は「モノ」との対峙にあるのかもしれません。モノに向き合い、生まれてくる内面の甘美な感情を表象することが創作の出発点と言えるでしょう。これはマルセル・プルーストの「印象」のテーマと呼応します。先入観を排除して事物を眺め、その印象を損なわぬように表現することで芸術が生まれていきます(参考:『花咲く乙女たちのかげに』におけるエルスティールの海洋画の場面)。

「美的」とされる、あるいは「選ばれやすい」とされる技法や素材を先に立たせることで、美学は「固定化」され、「コト」に変質します。そこで、そのような目的を一度放棄し、「モノ」に向かい合い、内面に立ち現れるものを表象することが重要性を帯びてくるように思います。モノを出発点として溢れ出る印象のダイナミズムを写し取るような俳句が美しいと感じるのです。言うなれば俳句は映像的な試みであり、ひょっとしたら動画を共有する感覚とどこか似ているのかもしれません。ただし、重要なのは自分の美的感覚が織り込まれることです。いわば動画に詩情を加えることであり、映画監督がカットに芸術性を加えるような試みに通底するように思います。

初学者なりの分析を提示してみました。「モノ」と「コト」が飽和する時代においてその関係を捉え直すための最良の手段として、俳句と向き合っていきます。

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