見出し画像

坂東ナショナリズムの原点としての鎌倉

要塞都市だった鎌倉の切通し
 何度も行った鎌倉であるが、「ナショナリズム」という視点から改めてこの町を訪れると新たな発見が少なくない。JR北鎌倉駅を降りると、そこは円覚寺の境内だった。宋・寧波から渡来した無学祖元が八代執権北条時宗のもとでここの開山となったところだ。またそこから線路沿いに歩いてしばらく行った建長寺は、無学祖元の大先輩で今の重慶から渡来した蘭渓道隆が五代執権北条時頼の参禅の師として開山となった鎌倉五山の筆頭である。
 ところで宋から渡来した僧侶たちは多くが日本語を話さなかったはずである。当時の日宋間のパワーバランスからして、日本の僧侶のほうが中国語を話したと考えるのが妥当だろう。戦後本牧の米軍住宅に横浜の人々が羨望のまなざしを投げかけ、英語で話そうとしていたように、宋の禅僧に対する日本人のまなざしも舶来文化に対する憧れがつまっていたのだ。そこにナショナリズムは生まれようもない。
 巨福呂(こぶくろ)坂の洞門を通ると鶴岡八幡宮である。この洞門は、かつて切通しだった。切通しというのはやわらかい岩をくりぬいた細道であるが、鎌倉は東西北の三方は山で囲まれ、南は遠浅の海になっている、日本初の巨大な要塞都市である。当然市内への出入りはこのような検問所で厳しく制限される。
 しかし巨福呂坂はバスも通る大きな道なので雰囲気がでない。この町の「要塞らしさ」がもっとも感じられるところは、逗子市との境にある「名越(なごえ)の切通し」である。山の中の未舗装の細道であるが、町のほとんどが崩れやすい凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)であるため、掘りやすく、トンネルなども作りやすいのだ。ここから内側はいわば京都の朝廷であろうが、他の武家であろうが、外敵に絶対攻め込ませないという強い意志が感じられる。

坂東武士という「国民」
 アンダーソンは「国民」の定義をこう述べている。
 「国民とはイメージして心に描かれた想像の政治共同体であるーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの(最高の意思決定主体)として想像されると。」
 鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝の前に立ちはだかる京都の皇室こそが、当時なりの「国家」であったとしたら、その下にあるものが「国民」ということになる。しかし外敵から襲われたことが皆無だった奈良・平安時代において、「国民」概念は生まれたとしても観念の遊びでしかなかったろう。
 しかし東国では様相を異にする。10世紀に朝廷の支配を拒否し、自らを「新皇」と称して朝廷の拠点だった坂東各地の国府を襲った平将門以来、坂東はしばしば朝廷と対峙してきた。将門の乱が三日天下で終わったことは、「平家物語」の序文をそのまま引用したアンダーソンも熟知している。ただ、その300年後に坂東を本当の意味で朝廷の支配から独立させたのが鎌倉幕府だったのだ。

国境線がファジーな前近代
 鎌倉の地形の特徴として「谷戸(やつ)」という三方を尾根に囲まれた谷間が挙げられる。前述した鎌倉最古、15世紀の舎利殿が残る円覚寺や五山筆頭の建長寺、夢窓疎石作庭の瑞泉寺や竹の庭で知られる報国寺など、鎌倉の名刹はみな谷戸に作られている。そして建造物は残ってはいないが、平安末期の浄土式庭園が復元された史跡、永福(ようふく)寺も谷戸の奥まったところにある。
 この庭園のモデルとなるのは奥州平泉の寝殿造の浄土式庭園、無量光院である。なぜ鎌倉からみても「辺境」に位置した奥州をモデルにこの庭園を造ったのか。その前にまず、アンダーソンの「辺境」に関する一節を引用してみよう。
「国家が中心によって定義された旧い想像世界にあっては、境界はすけすけで不明瞭であり、主権は周辺にいくほどあせていって境界領域では相互に浸透しあっていた。このことから、逆説的に、前近代の帝国、王国は、きわめて多種多様な、そしてときには領域的に隣接すらしていない住民を、かくもたやすく長期にわたって支配することが可能となったのだった。」
 つまり、平安時代の「旧い想像世界」では、鎌倉を中心とした東国と、奥州との境界はファジーだった。同じように、南西諸島もどこまでが朝廷に従う地域かははっきりしなかった。はっきりしない統治だからこそ、逆説的にいえばなんとなく統治しているつもりではあっても、統治される「辺境」にとってはそれを時には利用し、時には無視することができたのだ。

平等院→平泉無量光院→鎌倉永福寺
 頼朝は1189年に弟義経をかくまう奥州藤原氏を討とうとした。奥州に兵を進める前に、平泉の当主である藤原泰衡は義経の首をとって鎌倉に送っていた。しかし頼朝の真意は奥州藤原氏壊滅にあったため、後白河上皇に泰衡追討の願いを出した。上皇はこれを認めず延期するように命じたが、奥州藤原氏を討った。つまり朝廷の配下にある征夷大将軍に任じられながら、朝廷の命に従わなかったのだ。これは坂東の棟梁が京都の皇室の命に必ずしも従わないという、軍事的独立を宣言したようなものだ。
 ただし平泉に進軍した頼朝は衝撃を受けた。奥州藤原氏は領内で豊富にとれる黄金にモノを言わせて京風文化を普及させていたからだ。そこで宇治の平等院鳳凰堂をモデルにした平泉の無量光院をモデルに、義経や泰衡の鎮魂を目的として鎌倉二階堂に建立したのが永福寺だったのだ。 
 
ふるさと鎌倉でよそ者扱いだった文人将軍 
 頼朝の後を継いだ嫡男頼家が二代将軍となった時代には、北条氏ら「十三人の鎌倉殿」による合議制が敷かれた。その後、頼家は現役の将軍でありながら伊豆修善寺温泉に幽閉され、殺害された。その跡を継いだ三代将軍実朝は、武人である前に和歌集「金槐集」を編纂するほど京の文化を身に着けた文人であった。特に彼は和歌に関して後鳥羽上皇に師事し、新古今和歌集を編纂していた藤原定家にも和歌の添削を受けていた。この三人の関係がうまくいっていたころは朝廷と幕府の関係もうまくいっていた。和歌という京都の貴族文化を仲立ちとした平和だったといえよう。
 ただ坂東武者の棟梁でありながら京風文化に染まり切っていた実朝は政治の世界にはそれほど熱心ではなかったらしい。同じような例を、アンダーソンは英国文化に染まり切ったインド人の例を引用して述べている。
「(インド人行政官は)英国人行政官と同等のきわめて厳格な試験に合格したばかりでなく、その青春の人格形成期の最良の歳月をイングランドで過ごした。故国に戻ると、かれらは事実上、同僚の文官と同じ生活様式を維持し、その社会慣習と倫理基準をほとんど宗教的に順守した。(中略)その思考と作法において、彼はいかなる英国人にも劣らぬ英国人であった。それは彼にとって少なからぬ犠牲を要した。それは、彼が、彼自身の人々の社会から自らを完全に疎外し、かれらのなかで、社会的にも倫理的にもパーリアとなったからである。(中略)彼は、彼自身の生まれた土地で、そこに住むヨーロッパ人居住者と同じくらいよそ者であった。」
 つまり、京の貴族文化に染まったがため、彼は武家の町鎌倉では浮いていたのだ。ふるさとでありながら教育によって彼はよそ者になってしまったのだ。

金沢文庫にて
 ただし彼の死後も京都文化は絶えず鎌倉に入ってきた。鎌倉の外港だった現横浜市金沢区の六浦(むつら)に近い金沢(かねさわ)文庫では、北条実時が収集整理した京都や宋の書物が今なお残っている。また鎌倉幕府の視点から整理した編年体の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」もここで執筆、編纂されたようだ。そしてそれも京都の皇室中心の史観とは異なる。アンダーソンはナショナリズムの発生原因の一つに、中南米の現地新聞の普及を挙げているが、「吾妻鏡」編纂にはそれといくつか類似点がある。
「これらの新聞の豊かな特色のひとつは、その地方性にあった。(中略)もう一つの特色は多元性にあった。十八世紀末に発展したスペイン領アメリカの新聞は、それぞれ、自分たちの世界と併存する世界、そしてそこにすむ地方人たちを十分意識して書かれていた。」
 この文章の「新聞」を「史書」に、「スペイン領アメリカ」を鎌倉に、十八世紀を「十三世紀」に差し替えれば、「吾妻鏡」が意図するものがわかる。つまり、「十三世紀末に発展した鎌倉の史書は、それぞれ自分の世界と併存する世界(=坂東)、そしてそこに住む地方人(=坂東武者)たちを十分意識して書かれていた。」ということだ。
 このような経過を見ると、鎌倉の町づくりも、「吾妻鑑」の編纂も、京都の皇室の支配から坂東を独立させたいという思いを強く感じずにはいられない。アンダーソンのいう「想像の政治共同体の国民」は、この場合「日本人」ではなく「坂東人」である。そしてその土地が「限定的」であるのは鎌倉の周囲に残る切通しをみればわかる。あるいはその外郭は箱根の坂なのかもしれない。さらに将軍に坂東の主権があり、それが最高の意思決定主体であると想像され、そのシンボルが鶴岡八幡宮だったのだ。
 こう考えると鎌倉は関東地方における最初の「想像の共同体」ではなかったかと思えてならないのだ。(続)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?