哲学の愉しさについて

「難解で面白みに欠ける」と評判の哲学の愉しさについて語ってみようと思う。

先に結論から申し上げると、哲学の愉しさはなんと言っても答えがないという点に尽きる。答えがない、まさにそこがミソである。

まずそもそもの前提として、哲学は答えのない問題を解明しようとする学問と定義できる。すでに答えが存在しているならば、哲学の存在価値なんて全くない。だから宗教家にとって哲学は無価値だ。

またもし仮に答えらしきものが見つかっても、他の哲学者によって否定されたり、新しい解釈を付け加えられたりして、大体振り出しに戻るためその点については心配いらない。

なぜそうなるか?といえば、時代や人物によって解釈が変わるからだ。

万物の根源は水なのか?火なのか?数なのか?

答えはない。どれも正解であり、どれも不正解と言える。

これはギリシャ時代に議論された哲学的テーマだが、二千年以上経った今もその答えは見つかっていない。ということはつまり、答えなんてないのかもしれない。

もとより人間の知的活動自体に終わりがない。にも関わらず、哲学は何とかして真理を解明しようと奮励する。それはまさに無限に広がっている宇宙を探索するようなものだ。

探索している内にいつかどこかで真理が発見される日が来るかもしれないが、永久に真理なんて発見されることなく人類が滅びてしまうかもしれない。

それでもなお、解明せんとする。哲学とはそういう学問である。

では、何のために哲学が存在するのか?それはきっと人間が答えを求めてやまないからだろう。人間には知的好奇心があり、それを満たすために哲学は生まれた。そう表現しても言い過ぎではない程、人間は知的好奇心に抗えない生き物なのだ。

そして、まさにそこにこそ哲学の醍醐味はある。

答えのない問題に人生をかけて挑戦する。挑戦しても答えは見つけられないかもしれない。むしろ見つからない可能性の方が高い。それでも挑戦する。

これ以上エキサイティングな暇つぶしが他にあるだろうか。

要するに哲学とは人生において最高難度の知的な暇つぶしなのである。

こう書くと関係各位から反発を喰らいそうなので一応補足しておきたい。

哲学が実社会において役立つ場面も結構ある。例えば経営なんて理念や哲学がなければただの犯罪に過ぎないわけだし、全ての学問は哲学から派生した。さらに国家や政治経済、一般市民の価値観は偉大なる哲学者たちの影響を受けて発展してきた側面が大きい。難解で面白みに欠けると専らの評判だが、哲学にもちゃんと有用性があるわけだ。その点は疑いようがない。

しかし、実際の所、そんなことは知的好奇心を満たす喜びに比べたら枝葉末節なのである。

というわけで哲学の愉しさが少しでもお分かり頂けたのならば幸いだ。

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