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小説「オーストラリアの青い空」5

 もし、このコロナ危機が昨年だったら――、とヨシオはしばしば考える。

 というのも、昨年夏前にリタイアするまで、ヨシオは地方の広告会社で責任ある立場にいたから、リスク管理のしんどさをよく知っていた。
 景気や業績が順調なときは、上司は頑張る社員たちを見守って、励まし、業界で酒を飲んでいたらいい。しかし、不況や災害に直面したとき、責任者は底なしの深い淵に投げ出されるようなものだ。
 阪神淡路大震災や東日本大震災の後、どの企業も災害時の事業継続計画(BCP)を作っていたが、このコロナ危機は、21世紀に入って SARS(重症急性呼吸器症候群)や新型インフルエンザの流行はあったものの、パンデミックの規模と影響からして、想定を越える災害だった。

 組織が突然、普段の波風と質が違うストレスに見舞われたとき、克服のためにはリーダーの決断力と、それを支えるマンパワーが必要だ。
 しかし、コロナ危機は、肝心のマンパワーをばらばらにしてしまった。
 こんな未知の危機を、テレワークで克服できるだろうか。自宅でパソコンに向かい「作業」はできるだろう。
 だが生き残りのためには、管理職や現場の中堅、若手、それぞれが角を突き合わせ、アイデアをひねり出し、リーダーに集約して手を打っていく。そんな風にしてしか、危機の打開は難しいのではないか。ヨシオは歩いてきた仕事人生から、そう思うのだった。
 感染防止のため世界中で「ソーシャル・ディスタンス」なるスローガンが吹き出したが、そもその人間は「社会的動物」ではなかったか。デジタルで人と人とのコミュニケーションは確保できるかもしれないが、集団の中で感じ取る息遣いや表情のニュアンスなど、心の機微は伝え合えるのだろうか。
 「社会的」という意味は、ひとり一人がばらばらに生きているのではなく、組織の中で支え合い、顔を合わせて課題に挑んだり喜び合う、そうことではないか。
 コロナ危機は、そんな人間のあり方に正面から立ちはだかっている―、とヨシオは思った。そうなれば、人類は映画「マトリックス」のように、肉体は培養カプセルに入れられたまま、コンピューターに支配された仮想現実の中で生きるしかないのか…。

 しかし、コロナ危機が人間の社会を否定するならば、人間が密集して行動する政治的デモ行進や集会、議会、つまり協同した力の行使や誇示、団結、そして交流に立ちはだかったのではないか。宗教も例外ではない。
 密閉されたクルーズ船の集団感染が注目されたように、各国の艦船が機能停止を余儀なくされた。軍隊とは、最も密集した人間組織ではないか――。


 経済危機に直面した企業は、まず広告費を絞る。
 激減する売上、第1四半期の赤字はやむを得ないとしても、先の業績予想は? 関係業界の悲鳴、抜け駆けする同業者、アルバイトや派遣の解雇、再雇用者の処遇、緊急融資の手続き、社内の環境整備、社内で感染者が出た場合の対応、無責任な管理職、逃げる社員、時間差出勤などの労務対策、親会社からの締め付け、昇格やベースアップと夏の一時金…。
 広告費の次は、人件費だ。
 目を閉じれば、ヨシオの脳裏に思い付くまま課題が浮かび上がった。もうそんなことからとっくに解放されているのに、長年の習い性は罪深い。

 12年前のリーマンショックのとき、ヨシオはグループの長だったが、大まかには上の指示通りに走り回るだけでよかった。
 25年前の阪神淡路大震災では、まだ若く現場のキャップクラスとあって、それこそ寝食を忘れて復旧業務にぶつかっていった。
 「震災の時は、まだ小さい子どもたちと私を置いといて、会社に行ったもんな」などと、今でも時折、キョウコはなじるのだった。
 今から思えば、現場は「悩む」より「動け」ばよかった。
 コロナ危機が昨年だったら、ヨシオは夜の海に投げ出されたような恐怖を感じただろう。
 リタイアした今、もうそんなことを考える必要はない。なのに、オフィスの光景や後輩たちの顔が浮かぶ。いや、まだサラリーマン人生に強い郷愁を覚えているのかもしれない…。

 ヨシオとキョウコのいつもの散歩道は、長大な砂州が外洋の波を阻む内海の海浜公園にあった。刈りそろえられた芝生に、二等辺三角形の樹形がきれいなノーフォークマツが茂り、南洋風の植栽によって緑が濃い。
 海にはペリカンのサダオたちやカモメの群が遊び、ノーフォークマツの高い樹上ではカササギの仲間が、歌うようにおしゃべりをしていた。この鳥はマグパイと呼ばれ、体つきはカラスに似ているが、白黒模様の羽といたずらっぽい茶色の目をしている。
 ゴールドコーストに来たころ、ヨシオは彼らを「魚雷」と呼んでいた。昼を過ぎると、魚雷の英語「トーピード」と澄んだ声で鳴く。そしてくちばしをツンと尖らせ、羽をたたんで低空を吹っ飛んでいく姿は、魚雷そのものだった。
 実際に、夏の繁殖期に入ると、不用意に巣に近づいた人が、彼らの直撃を受け大けがをする事故も多発していた。なぜか自転車の人が狙われるから、オージーたちはヘルメットに針金を立て、ウニみたいな格好をしてマグパイ・アタックを防いでいるのだった。
 マグパイの声は驚くほど多彩だ。ペアで鳴き交わす調べが、心地よい口笛そっくりだった。彼らのさえずりを聞くと、ヨシオも口笛でまねておしゃべりに加わった。

 5月上旬、1カ月以上に及んだ外出規制が緩和されて最初の日曜日、その海浜公園はちょっとしたお祭り騒ぎのようになっていた。
 3月末、政府からの「強い要請」は、2人以上集まっての外出や既往症を持つ60歳以上の外出の禁止、葬式は10人以内、結婚式は5人以内などとする踏み込んだ内容で、公園の遊具は一斉に使用禁止となり黄と黒の警戒テープが巻き付けられた。スポーツジムは閉鎖された。

 それまでの公園は、「健康維持のためのウオーキング」をする人たちが言葉少なに行き交う程度だったが、小春日和にも恵まれたその日曜は、テーブルを出してワインと料理を並べる家族連れもいた。
 芝生にレジャーシートを敷いて、コーラとフライドポテトで盛り上がる若者のグループ、キックボードに乗った裸足の子どもたち、浜に降りてたこ揚げを楽しむ老人、上半身裸でラグビーボールを回す男たち、サングラスをかけて白い犬を連れた女性とか、浜辺は解放感に満ちていた。
 犬たちも、リードを外してもらって砂浜に飛んでいき、吠えながら干潟の浅瀬を走り回っていた。カモメを追いかけ、長い舌を垂らして飼い主にじゃれついた。ヨシオらにも、犬たちの荒い息が聞こえてきた。
 犬好きのヨシオは、嬉しそうな犬の顔が何にも増して好きだった。ゴールドコーストの犬たちは、世界一幸せな犬ではないかと、ヨシオは思った。どの犬も満ち足りていた。
 公園のベンチは、コーヒーの紙カップを片手におしゃべりに興じる人たちで埋まっていたが、木陰の奥まったベンチには、ウイスキーの瓶を枕にした若者の姿もあった。

 オーストラリアでは4月中に59万4千人が職を失い、失業率は6パーセントを超えていた。ナショナル・フラッグ・キャリアのカンタス航空でさえ従業員2万人の一時帰休を余儀なくされ、航空2位のバージン・オーストラリアは経営破綻していた。
 経済専門紙は、コロナ危機によって国内雇用の4分の1が失われた場合、小売り、建設、教育、観光、娯楽の5分野だけで120万人が解雇され、失業率は統計が始まった1978年以降最悪の13.8パーセントにまで高まると予想していた。

 アメリカでは4月だけで、2050万人が職を失い、失業率は14.7パーセントまで悪化して世界大恐慌以来の歴史的な水準となった。

 国連の経済社会局は5月中旬、この年の経済見通しを発表した。各国が感染防止措置を続けながら経済活動を徐々に再開した場合、2020年の経済成長率は前年比マイナス3.2パーセントとなり、1930年代以来の景気後退になると予想した。
 さらに、最悪の想定として年の後半に感染拡大の第2波が押し寄せ、都市封鎖や経済活動の制限が続けば、成長率はマイナス4.9パーセントまで落ち込む可能性を指摘した。

 ヨシオの娘ヒロコも、4月末に職を失った。
 ヒロコはオーストラリアの東海岸で1年間の語学留学をして、この国に魅せられた。留学中は各国の学生らとルームシェアをしながら、レストランでアルバイトをして切り詰めた生活をしていたらしいが、地元との交流や旅行もしてオーストラリアに染まっていった。
 ラグビーと並んで国民的なスポーツともいえるサーフィンにも親しんだ。
 帰国後は日本で就職したものの、オーストラリアへの思いは断ちがたく、パートナーのユウジとゴールドコーストにやって来た。学生ビザなのでフルタイムの仕事はできないが、小売業のパートタイムなどを経て、観光関係の事務職を得ていた。
 得意の英語を生かし、オーストラリアのオフィスで働くのがヒロコの夢だったから、目標に近づきつつあった。
 コロナ危機は、真っ先に観光業界を直撃した。

 5月中旬の土曜日、クイーンズランド州のオージーたちが待ちに待った日がやって来た。
 ほぼ2カ月ぶりに、レストランやカフェ、パブ、バーの営業再開が認められたのだ。

 世界の感染者は450万人に迫り、死者は30万人を超えた。アメリカの感染者は144万人、死者が9万人に迫る中、人口や人の行き来を差し引いても、オーストラリアの感染者7千人、死者98人という数字は先進国の中で飛び抜けて低かった。
 オーストラリア全土で新規感染者は4月下旬から30人以下に抑えられ、クイーンズランド州ではゼロの日もあった。オーストラリアの各州は、相次いで外出規制や飲食店の営業禁止を緩和していった。クイーンズランド州は3週間ずつ3段階の経済再起動のプログラムを発表した。
 この国の指導者は、記者の質問から目を泳がせて逃げるのではなく、質問者の目を見ながら自分の言葉で危機対応の説明をした。

 この日、ヨシオとキョウコも、ヒロコとパートナーのユウジの4人で、近くのタイ料理店へランチに繰り出した。
 歩道に面したオープンデッキは、風が通る気持ちのいい店だった。何よりも味と接客がよく、安かったのでヒロコらは月に一度は訪れていた。
 店はこぢんまりした商店街の一角にあり、向かいのカフェでは年配の女性たちが満ち足りた表情でコーヒーを味わっていた。街を歩く人々も口元に笑みを浮かべているように見えた。
 ただ、営業再開にはいくつかの条件が付いていて、店の入り口と出口が別にあって客同士が不要に接近しないことや、店内の客は10人以内に制限されていた。さらにランチでも予約しておかないと、入店できなかった。
 ヨシオらは入り口でスタッフに予約の確認をして、消毒液で手をぬぐって入店した。すでに2組の客が食事をしていて、ヨシオらは先客と一番離れたテーブルに案内された。ヒロコらと顔なじみのタイ人女性は、メニューを出す前に1枚の書類をテーブルに置いた。
 そこに全員の名前と住所、携帯電話番号を記入しなければならなかった。万が一、客から感染者が出た場合、州政府が各人の行動記録を確認して接触者を固有名詞で押さえ、集団感染を断ち切る方策だった。

 ヨシオらが久しぶりに満ち足りた時を過ごしていたころ、上空には滑空しながら地上を見下ろすコシグロペリカンのサダオがいた。
 カフェやレストランには、入店待ちの行列が見えた。みな1.5メートルのソーシャル・ディスタンスを保っていた。
 サダオにとって空は随分、自由になっていた。地名からクーランガッタ空港とも呼ばれるゴールドコースト空港の発着便は、わずかな国内便を除いて運休していたため、轟音を絞り出して低空を飛ぶ航空機と出くわさないのだ。
 サダオの翼は微風を抱いて、ゴールドコーストの空を飛び続けた。

シニアの旅に挑戦しながら、旅行記や短編小説を書きます。写真も好きで、歴史へのこだわりも。新聞社時代の裏話もたまに登場します。「面白そう」と思われたら、ご支援を!