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小説「オーストラリアの青い空」10

 7月中旬の土曜日、クイーンズランド州のガソリンスタンドは朝からキャンピングカーが押し寄せ、ところによっては給油待ちの車が道路にあふれた。
 この日から、州内のツーリスト・パークなどレジャー施設がほぼ4カ月ぶりに再オープンしたからだ。ツーリスト・パークは、日本のキャンプ場のようなもので、あちこちに点在している。キャンプとバーベキューが大好きなオージーの人気施設だ。
 広大な敷地にオートキャンプ場や、バンガローが並んでいる。バンガローといっても、キッチンと寝室、シャワー、トイレを備えた居室だ。遊具、レストランなどもあって、水辺、芝生広場、大樹の木陰も自然そのままに造られている。
 ゴールドコースト・ブロードウォーターのツーリスト・パークにも、キャンピングカーが列を作って押し寄せていた。

 7月の東海岸南部は、日によっては最低気温が10度を切る朝もあり、温暖な地域にあっては特に寒い。とは言え、大抵のキャンピングカーはひと家族がゆったり過ごせる広さと設備を備えているから、オージーらは平気でアウトドアライフ三昧だ。
 昼になると、短パンにTシャツ、裸足で外気に触れる。水辺なら釣りをしたりカヤックに乗ったり、山なら草の上で、テーブルにはテーブルクロスを敷いて、ランチを楽しむ。大人たちにはビールやワインが欠かせない。

 ヨシオとキョウコも、子どもらが中学生ぐらいまでは、休日になるとしょっちゅう車でキャンプに出かけていた。もう20年ほど昔になる。だから、キャンプには思い入れがあった。

 オージーらの多くは、ツーリスト・パークに愛犬を連れてくる。広々とした自然の中で、家族と犬が戯れる姿は、絵に描いたような休日の光景だ。日本では狭い区画のキャンプサイトばかりで、ペット禁止のところも多く、オーストラリアのツーリスト・パークを見ると、カプセルホテルと大邸宅ほどの開きを、ヨシオは感じた。

 ヨシオとキョウコのオーストラリア滞在は、すでに4カ月を過ぎてしまった。
 娘夫婦ヒロコとユウジとの思いがけない共同生活は、生活の距離感や時間配分などがお互いに分かってきて、それなりに落ち着き始めようとしていた。
 観光ビザの有効期限は入国から3カ月とあって、ヨシオらは最長1年の滞在が認められるビジタービザを申請していたところ、ほぼひと月で認可された。
 とりあえずの難関はクリアしたのだが、7月中旬以降、オーストラリアでもメルボルンやシドニーで新型コロナウイルスの感染第2波が発生し、日本でも東京、大阪など大都市で感染者カーブは右肩上がりに転じていた。
 南北アメリカ、インド、ロシア、南アフリカを中心にパンデミックは加速し、世界の感染者は1500万人、死者62万人に達していた。北米では1日の感染者が7万人を超え7月下旬には累計感染者数は400万人となった。
 大統領はマスクを着ける着けないで迷走を繰り返し、コロナ対策の失敗と相次ぐスキャンダルで秋の大統領選挙での再選が怪しくなると、中国に喧嘩をふっかける危ない橋を渡り始めた。
 この大統領は、自身の再選を果たすためなら、自らが仕掛けた戦場に北米の若者を躊躇なく送り込むかもしれない。

 日本では、観光と経済活性化のために政府が補助金を付けて「旅行に行こう」というキャンペーンを始める一方で、「8月いっぱい、イベントは自粛しよう」と呼びかけた。野党党首は「アクセルとブレーキを一緒に踏めと言っているようなもの」と批判していた。
 その日本の首相は、ひと月以上も記者会見を開かず、空前の社会的危機の最中に雲隠れを決め込んでいた。時折、取材陣の前を通りかかると、降り注ぐ質問と突き出されるマイクに、おびえた小動物のような表情になって目を泳がせ「担当大臣がしっかり対応している」と答えた。
 首相とその妻が応援した私立学校新設をめぐって、国有地が不当に低い値段で売却され、関連公文書改ざんを命じられた財務省職員が自殺する事件があり、職員の妻が真相究明を求めて国などを相手に訴訟を起こしていた。

 オーストラリアの第2波は、規模からすればアメリカの百分の一以下だったが、この国の首相は連日のように記者会見を開き、原稿に目を落とさず記者とカメラを見て、自分の言葉で国民の連帯と経済対策などを語った。
 この首相は就任後、大規模な森林火災が各地に広がり、オーストラリア社会が打ちひしがれ世界が気をもんでいた昨年末、家族とこっそりハワイ旅行に出かけていたのがバレて、激しい批判にさらされた。しかし、一連のコロナ対応では、ニュージーランドの女性指導者とともに、感染防止を第一に置いたぶれない対応を示し、歴代首相の中で最も高い支持率を得ていた。
 これに気をよくしているのか、会見で口元を緩める表情が目立ち、自信なのか慢心なのかオージーのあいだでも論議があった。

 7月――。この月にヨシオとキョウコは期待していた。第1波がある程度治まり、日本の入国規制について、感染を抑え込んでいるオーストラリアなどからの帰国者には、14日間の自己隔離と公共交通機関使用自粛措置などが緩和されるのではないか。運休している国際線が再開して、関空便も復活するのではないか―。
 ストレスなく帰れる可能性が、5、6月にはちらついていた。しかし、7月の第2波に期待は砕かれた。
 カンタス航空は来年の3月末まで、国際線の予約を保留した。来年3月まで。
 日豪間唯一の直行便、全日空シドニー・羽田便が飛んでいる内に、14日間の自己隔離を覚悟して帰国するしかないのではないか…。猛暑の日本を思うだけで、暑さに弱いヨシオはげんなりした。それとも、もう少し様子を見るか。

 そんな折、ヒロコとユウジが懇意にしているオージーのジョンから、みんなでパーティーに来ないかという誘いがあった。
 ヨシオの印象では、オージーはそれぞれ自分の周りに十数人の緩やかなコミュニティーというか、気の置けない仲間を持っている。仕事や地域のつながりもあろうが、ジョンの場合、近くのパブの飲み仲間だった。この社会では朝が早い分、午後3時には仕事を切り上げた職人たちで地元のパブは賑わう。
 移民社会とあってコミュニティーは、どこの馬の骨とも分からない者同士、お互いに距離を測りながら楽しみ助け合う、緩やかな輪とでも言えばいいのか。

 勤め人より自営業者が多いとされるオージー社会で、水道配管工や大工、左官、内装業、溶接工など、技術を持った現場仕事の一人親方は、所得水準も高く、地域社会の欠くことができない職業人として尊重される。彼ら同士もお互いに認め合い、気の合った者同士で年越しイベントとか、誰それが引っ越すからとか、何かきっかけを作ってはパーティーを開く。大抵は夫婦同伴で集まる。

 一人親方の配管工ジョンは、人付き合いの良さと分け隔てなく人と接する気性から、グループのまとめ役のような存在だった。
 ヒロコとユウジは、ゴールドコーストに来たばかりで家捜しを始めた当初、ほんの偶然からジョンと知り合った。以来、ジョンのグループでは唯一のアジア人カップルとなっていた。

 パーティーには最低限のルールがあった。食事は持ち寄りみんなで分け合うが、アルコールは自前が原則だ。酔った勢いでの喧嘩とか、和を乱してしまったら、次から声はかからなくなる。
 ようやく日が傾き始めたころ、ジョンの裏庭には仲間が集い始めた。2匹の大型犬が、ワンワン吠えて上機嫌で客を迎えた。犬たちは食べ物をもらえるし、入れ替わり立ち替わり遊んでもらえるから、早くも盛り上がっている。
 テーブル三つ四つをつなぎ合わせ、思い思いの料理が集まった。庭の隅には直径1メートルほどもあるプラスチックバケツが二つ置かれた。バケツは洗濯物を放り込む、どの家にもあるやつだった。
 「やあ、久しぶり」「調子はどうだい」
 握手とハグのあいさつである。「ヒロコのパパとママだ」とジョンが皆にヨシオとキョウコを紹介して、2人にも握手とハグが降ってきた。
 当地のクイーンズランド州では、ほとんど感染は抑えられているものの、中心都市ブリスベンで感染者は確認されている。ヨシオが肘を突き合うあいさつをしようとしても、みんなお構いなしにハグである。

 夕暮れを待たずに、皆のテンションは一気に最高潮に達していた。
 「おい!知ってるか。このメンバーでは、こいつが一番儲けているんだ」
 「いや、おまえじゃないか」
 「ところで、あいつは今日来ないのか」
 「奴に赤ワインを飲ませたらだめだ」
 「それできょうは呼んでないのか」
 「おれは明日、サメ釣りに行くんだ」
 「食われないようにな」
 「何? 日本に帰れないって? クリスマスまでいればいいじゃないか」

 テーブルの上をビールの空き缶や空き瓶がビュンビュン飛び、派手な音を立てて洗濯バケツに吸い込まれていった。みんな調子よく投げ込むのだ。巨大なバケツは、すぐにビールやワインの抜け殻で埋まっていった。

 夜が更けるとともに、三々五々、席を立つ人もいたが、酔っ払った彼らは簡単には帰らない。男女を問わずハグと頬ずり、ほっぺにキスである。ハグといっても、パーティーの初めのハグではなく、別れのあいさつはギュッと抱きしめられる。
 もちろん、この社会の習慣なのでヨシオらは決して悪い気はしなかった。むしろ、仲間の一員として迎え入れてくれた彼らに、感謝していた。彼らは酔っ払ってはいるものの、コロナ危機のためにオーストラリアで立ち往生しているヨシオとキョウコを、慰めてくれる気配りがあった。

 この夜も、サザンクロスは澄んだ光をたたえていた。大気は、パーティーの熱気を冷まそうとするかのように、冷え込んでいった。

シニアの旅に挑戦しながら、旅行記や短編小説を書きます。写真も好きで、歴史へのこだわりも。新聞社時代の裏話もたまに登場します。「面白そう」と思われたら、ご支援を!