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小説「オーストラリアの青い空」9

 目の前を、羽をスキッと伸ばしたカモメが浮かんでいる。
 風上を向いて飛んでいるのだが、強い南風と打ち消し合って、止まっているように見える。南半球では、南風は寒い南から吹くから日本で言う「北風」になる。
 ブロードウォーターの浜沿いに並ぶカフェには、散歩のオージーたちだけでなく、カモメも群がってくる。客が投げるフィシュ&チップスのおこぼれに預かろうと、朱色のくちばしを開けてガーガー鳴きながら、上空を旋回したりテーブルに降りてきたり、忙しいことこの上ない。
 食べ残した一握りのフライドポテトを床に撒こうものなら、数十羽が入り乱れての奪い合いが始まる。これを面白がって餌を与える人もおり、オープンデッキに客が座ると、数羽のカモメが寄ってきてソワソワと顔色をうかがうのだ。この仕草は、腹を減らした犬と変わらない。

 こんなカモメといい、優雅に舞うペリカンといい、オーストラリアは鳥好きにはたまらない国かもしれない。極彩色のインコが公園の花を食べていたり、何せ鳥たちとの距離が近いのだ。
 鳥ではないが、体長1メートルもあるフルーツコウモリが、公園の木にぶら下がっていたりする。
 ヨシオはペリカンのサダオだけでなく、歌うようにさえずるカササギの仲間や、マスクド・ラップウイングという、とぼけた顔の鳥との出会いに気持ちをなごませた。
 マスクド・ラップウイングは和名をズクロトサカゲリといい、黒い頭の下に黄色い顔がある。顔は羽毛ではなく、垂れたトサカの地肌がむきだしで、目は黒い。黄色いトサカは、くちばしの両脇に大黒さんの福耳みたいにぶら下がっていて、愛嬌たっぷり。「ケケケッ」と激しく鳴いて飛んでくる。
 警戒心が強い鳥とされているが、「お前はどこから来たんじゃ」と問うような顔つきをして、結構近くまで寄ってくる。

 時折現れるカツオドリの群は、ヨシオをびっくりさせる芸当を見せてくれた。
 グライダーのようにほっそりした姿で上空を舞い、急降下して羽をM字型に縮めて海に突っ込む。ズボッという音とともに水しぶきが上がる。かと思えば海面すれすれで反転上昇しては、小魚を探す。
 目の前の浅瀬で繰り広げられるカツオドリのハンティングを、驚いて見ているヨシオに、散歩のおばさんが「あれはブービーよ」と教えてくれた。あのブービー賞のブービー? 人を警戒しないカツオドリは、陸上では簡単に捕まえられてしまうため、「間抜け鳥」となったのだという。
 「この海には時々イルカの群もやって来るの。満潮のころに小魚を追って」
 
 ヨシオはいつもこの海の豊かさを確かめてから、散歩を切り上げた。
 娘夫婦と同居するアパートメントの前は、幹線道路が走っていて、バス停も近い。

 ドスン、ドスンという場違いな異音が、ヨシオを緊張させた。
 交差点で信号待ちをしているドライバーも、「この音は何?」という顔つきで辺りを見回していた。
 ヨシオはバス停を見て、目を疑った。若い男が看板を殴っていたのだ。
 男は小太りで、短パンとTシャツにキャップを被っていた。どこでも見かけるオージースタイルだった。ボクシングの構えをして、素手で看板を力任せに殴っていた。
 看板といっても畳一畳の大きさがあって枠は金物、単行本ぐらいの厚みがあり、アクリル板が広告を覆っている。中は空洞らしく、男が殴るとボコボコへこんだ。
 新築不動産の広告で、白いしゃれた家と、ほほ笑む中年の男女の顔写真が印刷されていた。
 バス停にはその男一人だけだったので、他の人に危害が及ぶことはないのだが、怖いもの見たさと関わりたくない、とのせめぎ合いに周囲の誰もが戸惑っていた。
 そのうち男は、素人とは思えないキックを看板に放ち、夕暮れの街にドーンという音響が響いた。
 

 オーストラリア滞在が3カ月を過ぎ、観光ビザが切れて新たなビジタービザを申請したヨシオとキョウコにとって、新たな心配事が現れた。
 医療保険である。クレジットカード付帯の保険でカバーされていると思い込んでいたヨシオらだったが、適用には限界があって日本出国から90日までだった。
 6月中旬、キョウコが体調不良を訴え、日本語通訳が常駐するクリニックを訪れた。
 「よかったですね。もし来週に来られていたら、保険の適用外になるところでした」
 スタッフにそう告げられ、ヨシオらは間もなく無保険状態になることを知ったのだった。

 スタッフによると、海外からでも契約できる日本の旅行保険があり、1日1人500円程度で手厚い保障が受けられるという。2人でひと月3万円あまりと決して安くはない。現地の保険会社も短期滞在者向け医療保険を出していて、日本の保険より安いが、カバー範囲などは英文を読み込まなければ分からなかった。
 高額医療費のリスクと滞在が長引く不安の中で、悩ましいところだった。
 保険に入って、せっかくのオーストラリア生活を安心して楽しんだらいいのに――。そう思う一方、キョウコの不調は尾を引きそうな気配だった。
 日本語クリニックは閑散としていた。3月下旬の国境閉鎖と、4月からの国際線運休を前に、ワーキングホリデーの日本人学生らが帰国したため、一気に患者が減ってしまったのだという。

 WHOは6月下旬、「パンデミックが加速している」と世界に警告した。
 7月に入ると、新規感染者は南北米大陸を中心に1日で20万人を超え、世界累計の感染者は1100万人台となった。死者は52万人を超え、医療体制が不十分な新興国をむしばんでいった。
 オーストラリアでは州境開放やニュージーランドとの往来再開の動きが本格化する一方、メルボルンで感染者が増加に転じ、1日200人に迫った。毎日、万単位で増えるブラジルやアメリカ、インド、南アフリカなどから比べると桁が違うものの、これまでウイルスを抑え込んできただけに、オーストラリア社会は緊張した。
 メルボルンと近郊の一部は、再び6週間の都市閉鎖が実施された。
 メルボルンを州都とするビクトリア州と州境を接する各州は、道路に警官を配置して許可車両以外の通行を制限した。
 生活必需品の買い占めが一部で目立ち始めたころから、大手スーパーはオーストラリア全土でトイレットペーパーなどの販売を1世帯に1パックとする規制を再開した。

 こんなコロナ危機下だが、ヨシオとキョウコが娘夫婦宅に身を寄せる東海岸のクイーンズランド州は、新規感染者ゼロを連日更新していた。
 ヨシオらはヒロコとユウジ夫婦や、彼らのオージーの仲間を通して、オーストラリア社会のいろいろな面に接した。
 当初は、自然に囲まれた広い大陸で、国民性はきっとゆったりしているのだろう、と思っていた。そんな面はいくつもあるのだが、「のんびりしたオージー」というイメージだけでは不十分なことに、誰もがすぐに気付くだろう。
 何せ、朝が早い。製造業やオフィスの始業時間が朝6時から7時台というところが、ざらにある。このため、カフェは5時開店が普通だ。その代わり、終業は大体午後3時。パブで一杯やるか、家族と夕食をゆっくり楽しむ時間を大事にする。
 それに、意外といっては失礼だが、大抵の働き手は勤勉だという。仕事現場では、早朝の始業から昼までお腹が持たないので、9時頃に15分ほどの軽食休憩がある。昼休みは30分から45分。結構詰めて働く。

 一方で、男女とも成人すると力士並みの体型になる人が目立つ。これは食生活のせいだろうが、不思議なところもある。
 日本人が職場の昼食に、ご飯と卵焼きや焼き魚などの普通の弁当を広げると、オージーらはびっくりする。彼らは、市販のヨーグルトとナッツだけとか、ツナ缶だけで済ませる人もいるからだ。
 ただ、レストランなどの一人前の分量は、日本の倍はある。路肩に止めた車の中で、フライドポテトを食べながら休んでいる人は、大抵コーラを持っている。
 スーパーにはオーガニック食材があふれ、鶏もも肉は脂肪が多い皮を外して販売されている。レストランではベジタリアンやビーガン、グルテンフリーメニューが幅をきかせる、そんな健康大国かと思いきや、ことはそう簡単ではないようだ。
 また、公衆トイレには、使用済みの注射針を入れる金属容器が壁にしっかりと固定されている。ヨシオは初め、糖尿病患者が自分で打つインスリン注射への対応かと思っていたが、どうやらそれだけではなさそうだ。

 ヨシオにとって、この健康大国の謎にたばこがあった。オーストラリアは世界一たばこの値段が高い国といわれ、マールボロひと箱が何と3千円ほどもする。たばこ自販機はない。しかも、パッケージにがんの患部写真がでかでかと印刷され、普通の神経なら手を出さないようになっている。
 だから喫煙者の多くは、刻みたばことフィルター、巻紙を買ってきて、自分で巻いて節約しているようだ。
 こう見れば、さぞかし喫煙者は少なく、肩身の狭い思いをしているのではないかと誰しも思うだろう。
 ところがだ。WHOが発表している2016年のオーストラリア喫煙率は男性17%、女性13%だが、ヨシオの印象では、実際にはその倍以上ではないか。
 公園は芝がきれいに刈りそろえられ、ベンチのメンテナンスはいつも行き届いているが、足下には吸い殻やフィルターが散らかっている。歩きたばこの人にも出くわすし、紙巻きより安い電子たばこも普及している。
 たばこ価格は、政策で毎年1割以上値上がりするため、市販のパッケージたばこはある意味でお金持ちの象徴になりつつある。
 「どうもよう分からん国やなあ」とヨシオ。「そうなんですよ」とユウジ。「でもみんなお酒が好きで、いい奴ばっかりやな」と笑い合って、話は終わる。


 クイーンズランド州は6月下旬から7月上旬にかけてスクールホリデーを迎えた。学校の冬休みだ。街に子どもたちが目立つようになる。
 ヨシオとキョウコが散歩のためアパートメントを出て幹線道路の歩道を歩き始めると、反対側の歩道から子どもらの騒ぐ声が聞こえてきた。キックボードやハンバーガーチェーン店の紙コップを持った数人の白人だった。
 片側二車線ある広い道路なので、すぐには何を言っているのか分からなかった。
 小学校高学年ぐらいの男の子が、ヨシオら2人に向かって何やら叫んでいた。
 その言葉を聞き取って、2人は足早に立ち去るしかなかった。
 「コロナ! コロナ!」「魚臭いぞ」などと言って指を差し、挑発的な身構えをしていた。通りがかった大人は、首を左右に振ってヨシオらに「ごめんなさい」と声をかけ、向こう側の子どもたちをにらみつけた。
 子どもらはふざけながら、走って行った。

シニアの旅に挑戦しながら、旅行記や短編小説を書きます。写真も好きで、歴史へのこだわりも。新聞社時代の裏話もたまに登場します。「面白そう」と思われたら、ご支援を!