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小説「オーストラリアの青い空」7

 コシグロペリカンのサダオには人間の友達がいた。

 毎日、岸辺の海上で顔を合わせて、それとなく無事を確かめ合う。ジェイソンも、他のペリカンと離れて独り海上に漂うサダオに親近感を持っていた。
 ジェイソンはこの静かな汽水域に、小さいヨットを浮かべ、寝泊まりしていた。水深は満潮時でも2メートルに満たないため、海底の柔らかい砂にアンカーを打っておくのも簡単だった。
 ネラング川の河口と、長大な砂州を挟んで南太平洋とが入り交じるブロードウォーターには、ジェイソンのヨットのような舟から豪華な双胴船まで、数十艘が浮かび、サーファーズパラダイスの高層ビル群を背景に青と白の景観をつくっていた。

 ヨシオとキョウコは、毎日のように時間をかけてブロードウォーターの浜を歩いた。コロナ危機で閉じかけた世界からすれば、そこはむごいほど明るい窓だった。
 ただ、この浜の水際から少し離れた所には、あちこちに白い砂を汚すように黒い帯が見られた。前の年、オーストラリア各地で発生した森林火災の灰が上流から流れてきて、その痕跡を残したのだった。

 ジェイソンのヨットは古ぼけていて、目を引くものがあるとしたら、50センチ四方の太陽光発電パネルと、風でちぎれかけたオーストラリア国旗ぐらいだった。パネルは主に電灯とスマートホンの充電に使っていた。
 彼は昼前になると、ヨットに舫(もや)ったボートに乗り移り、50メートルほどオールを漕いで砂浜に着ける。ボートは2メートルにも満たないブリキ製で、元はブルーの塗装が施されていたようだが、とっくに雑巾バケツそっくりの色合いになっていた。
 短パンとTシャツで濃いサングラスをかけ、ビーチサンダルを引っかけて上陸すれば、辺りを歩いている散歩のオージーと区別はつかなかった。ただ、すれ違う人は、塩の吹いたキャップにちらりと視線を走らせた。

 ジェイソンはボートを岸に揚げてから、一対のオールを抱えて海浜公園を横切り、路肩に置きっぱなしにしている白いマツダ車に乗った。公園に面した公道は駐車OKとあって、いつもぎっしりと車が止まっている。20年前のマツダ車は走行距離も20万キロを超えていたが、故障知らずだった。
 この国には日本のような車検はないし、自動車ディーラーが勧めるままに、次々と新車に乗り換える人は少ない。
 ボンネットの塗装が所々はがれたマツダ車は、10分ほど走ってショッピングセンターの駐車場に入った。ジェイソンはスーパーマーケットでパンやチーズ、果物などを買ってから、近くの酒屋でワインとウイスキーを仕込み、来た道を戻って車を止めた。
 買い物袋と一対のオールを担いだジェイソンは、浜に戻り、ボートを再び海に浮かべて、手慣れたオールさばきでボートを漕いだ。
 しかしボートをヨットの艫(とも)に着けてからが、一仕事だった。
 まずボートをロープでヨットと結び、揺れるボートに立ってバランスをとりながら、荷物をヨットに担ぎ上げた。最後にジェイソン自身がヨットに乗り込むのだが、身のこなしにもう若さはない。
 揺れのタイミングを測りながら、船外機の横からステップに足を掛けて、よいしょと甲板に乗り込むのだった。
 サダオはいつもハラハラしながら、ジェイソンが船室に入るまで見守っていた。

 ジェイソンには、街中に自宅もあって家族もいるらしいのだが、このような海上生活をもう10年ほど続けていた。サダオは風の噂に、ジェイソンは地元で知られた会社に勤めていてそれなりの地位にいた、という話を聞いたことがあった。しかし、なぜこんな生活を続けているのかは知らなかった。

 ジェイソンは気が向けば、自転車の空気入れみたいなポンプを干潟の砂に差し込み、吸い上げた砂と海水を勢いよくぶちまけて、ヤビーと呼ばれる小エビを捕った。ヤビーをヨットに持ち帰って、釣りの餌にすると、キスやクロダイ、コチなどが釣れた。
 海浜公園には自由に使えるバーベキューサイトやトイレ、水道水のシャワーもあった。犬用の水飲み場まであるお国柄だ。冬でも暖かい日中なら、ザブンと海に入ってシャワーで流せば、まあまあ清潔に暮らすことができた。

 日が沈むころになると、ジェイソンは水を入れたペットボトルとウイスキー、プラスチックのグラスを持って、ヨットの甲板に出た。あぐらをかいてウイスキーを水で薄め、ちびりちびりやる。スマートホンでユーチューブを開き、MJQ(モダンジャズ・カルテット)を聴きながら、ゆっくり揺れるヨットに身をゆだねた。
 すぐそこの海上にはサダオが浮かんでいた。
 その夕、南西の空に、太くて濃い虹が出た。
 南太平洋で湧いた雲は南風に乗ってオーストラリア大陸東海岸に流れ、晴天でもしばしばにわか雨を降らす。オージーが「シャワーだ」と言うように、ほんの数分のお湿りとあって、傘を差す人はいない。
 ブロードウォーターでもシャワーの後、強い西日が虹を架ける。時には手を伸ばせば触れることができるような虹が立ち上がる。
 ジェイソンはヴィブラフォンの残響に虹の音を聞いていた。
 サダオは風に虹のにおいを嗅いでいた。

 しばらくすると、天空には星が二つ輝き始めた。ケンタウルス座のα(アルファ)とβ(ベータ)は、南半球で最もポピュラーな一等星だ。この二つの星の先には、南十字星がある。
 ジェイソンは若いころ、天体観測に夢中になった時期があった。スポーツ少年だったが、脚の関節に問題があって、医者から激しい運動を控えるように指示され、星に目が向いた。兄の影響もあって、宇宙やSFにも興味を持っていたから、自然なことだったのかもしれない。
 ケンタウルス座のαは、太陽から一番近い恒星である。そこにも地球と似た惑星があって、ひょっとしたらそこのジェイソンが星を見ながら、酒を飲んでいるかもしれない。彼からは太陽も一等星の明るさに見えているはずだ。
 
 ジェイソンは酔いに任せて、夢想にふけった。
 サダオも浜のねぐらに帰り、眠りに落ちた。

シニアの旅に挑戦しながら、旅行記や短編小説を書きます。写真も好きで、歴史へのこだわりも。新聞社時代の裏話もたまに登場します。「面白そう」と思われたら、ご支援を!