Quizology:ミクロコミュニティ論>わからないを楽しむ

(推敲中…。とっちらかっているので、いったん出して、後で片づけます。)

上記の記事を拝見して、素人意見で恐縮なのだが、少し言葉足らずかも、、と、もにょった部分があったので、少し私見を残すとともに、関連するトピックについて、Quizologyの知見を借りて、問題状況と具体的解決方法について書き残しておきあす。

1.『「生きた知識」などない』について

1-1.上記のnoteの解釈

(補足)【「生きた知識」の定義の一例】

①獲得経路による定義

 生きた知識:(クイズ以外を目的として得た)知識
 ※死んだ知識:(クイズを目的として得た)知識

②知識の保有状態による定義

 生きた知識:(具体物の接触経験を保有している)知識
 ※死んだ知識:(具体物の接触経験がなく、観念的な把握のみの)知識

③役に立ったかどうかによる定義

 生きた知識:(特定の目的を達成するために寄与した)知識
 ※死んだ知識:(特定の目的を達成するために寄与しない)知識

「生きた知識」≒「ナチュラル知識」

【使われ方】

・この問題は「生きた知識」のおかげで答えられた。→①②③
・クイズで知った料理を食べ「生きた知識」にした。→②

【主張】

(①②③の定義づけに触れないが部分的に各定義の死んだ知識批判しつつ)「クイズ(の知識)」に対しての「生きた知識」は、「クイズ(の知識)」を「死んだ知識」と暗に言っており、ただ、自分を正当化したいだけ(正当化するためにマウントをとりたいだけ)ではないか。(自分の体験や嗜好にもとづいた知識が優位であると主張したいだけ。肥溜めに鶴と褒めるのは、うんちである。)

→(”知識”をマウントをとるための道具、”クイズ”をマウントをとるための道具、とみている人々ピーポーの存在を想定。)知識を過大評価・過小評価しているのが透けて見える点で暴力的ですらある。そういう意味で、(クイズの暴力性を回避するためには、)こんな暴力的な意味をはらむ”生きた知識”という言葉は使わないようにすることから始めましょう。

1-2.上記のnoteを受けての所感

暴力的なのは、それを暴力的に使う人。科学は悪くない、悪いのはそれを使う「人」と同じ構造なのかなぁと思った。

上記のnoteでいうと、”生きた知識”という言葉は暴力性をはらみうる余地をもつ言葉ではあるが、何かしら他の体験とつながったという意味で"活きた知識"に対する嬉しさは存在し、"競技クイズ史観を持つ人"が他の体験とつながらなかった知識に劣化評価をつける暴力的なことをしなければよいのでは?と思った。
”生きた知識”という感覚は確かに存在し、「生きてきた中で、(クイズを目的としないで)身につけた知識」がクイズで活きたときの嬉しさは確かにある。自分の人生経験が肯定された感覚、それが正解!そして勝負事への勝利に寄与したとなれば、嬉しさは一入である。

もちろん、この嬉しさを高めるためにクイズを目的として身につけた知識(クイズ知識)を貶めるまでするのはよろしくないが、それは単にそうしなければいいだけで、この嬉しさを表現できないというのは楽しさの可能性がせばまるようで、「生きた知識」などないという言葉に少しもにょったというところ。この嬉しさを追求する「クイズをより楽しむ」というという研究の方向性も存在すると思ったところである。

暴力的なクイズ史観を持つ人を、他人にマウントとることはダサいですよ~、クイズはゲームであり自己正当化の道具にするのはダサいですよ~と、知識でマウントピーポーに伝えても、自己防衛反応で反発されるだけで変わりっこなく問題解決には至らないだろうから、そういう意味で、”生きた知識”という言葉を使わないことから始めるべきという意見には共感できる。

本人の意図とかかわりなく言葉自体が暴力性をはらみうるため、代わりの言葉が必要だが、いずれ伊沢さんあたりが考案して広めてくれるんじゃと思っている。
Quizology的には「生きた知識」ではなく「ナチュラル知識」としていたが、これも「非ナチュラル知識」を想定しうるので問題解決に至っていないかもとも思い直す。いや、やっぱ、これどうやってもムズイな、そういう文脈で使う人々ピーポーがよくないと思うな、、うん。まぁ、一度ミーム汚染されてしまった言葉をきれいにするのは至難の業なので、新しくキャッチーな言葉を、キャッチーな人が広めてくれるのが一番てっとり早いとおもうところ。

んで、新しい言葉をつくっても、また汚染されちゃぁ(要は、生きた知識やナチュラル知識のことだよねと言われたら)おしまいなので、やっぱり、対症療法ではなく、根本的な防止策が必要となってくると思うところ。

そこで、こういった他人に対してマウントをとりたがる人達について、どう対処していくのか?という問題を考えていったとき、少し、Quizologyの知見が使えそうなので、残しておくぜよ。

2.Victor的享楽者とEggheads的スタンスの限界

知識でマウントをとろうとする人々の扱いについては、Quizologyのミクロコミュニティ論でも、似た議論があった。もっというと、そもそものQuizologyが誕生した経緯自体が、クイズコミュニティ論由来だったりもする。

クイズコミニティ論とは、「よりクイズを楽しむために」「場という観点」に着目する知見の集まりであり、「クイズをする人がコミュニティから離れていく困り事」や「クイズを楽しめないという困りごと」の解決を図るQuizologyの領域である。そのうち「個人のクイズの楽しみ方」の特性からアプローチして問題解決(よりクイズを楽しめる状態にする)を図るのがミクロコミニティ論である。

Quizologyの興りは、1970年代後半のアメリカクイズ界において、Frazee Unfair Questions(FUQs)に代表されるような、CBCIの陳腐化・難問化を受けての、「これではだめだ!コミニティ、文化が衰退していく!」という市井のクイズプレイヤー達が集まってアメリカクイズ界の行き先を話し合った「@Forum」に端を発しており、まさにこれはクイズコミニティ論の領域である。(参照:クイズコミニティ論>マクロコミニティ論>Quizology史)

(余談だが、この流れが1990年代にNAQTやACFができあがる過程にもつながっていく。)

ミクロコミニティ論の具体のアプローチとしては、「クイズを”より楽しむ”」ための研究であるQuizologyにおいて、楽しむ対象であるクイズの「楽しさ(Pleasure)」を類型化し、その類型を分析し個人に当てはめることで、コミュニティを構成する(構成しうる)人にはたらく力学を明らかにし、問題解決を図っていくものである。

その中で、「Victor(ビクター)的楽しさ」と「Eggheads(エッグヘッズ)的楽しさ」という楽しさの類型があるので、先ず、順番に説明していく。

2-1「Victor的楽しさ」とは?

「Victor(ビクター)的楽しさ」とは、一言でいうと「相手を打ち負かす」ことによる楽しさである。
俺TUEEE!!や無双感、万能感。勝利の美酒に溺れた楽しさであり、勝利至上主義者とも訳される。

少し細かい話になるが「勝利に重きを置く楽しさ」ではない点に注意が必要である。
「勝利する」という結果に対する背景は複数存在し、自分の能力や鍛練の成果を発揮することや、ゲーム戦略上の意志決定を最適に実行することに重きをおいた結果、勝利に重きを置いているように見えることがあり、これらは「相手を打ち負かす」ことに重きを置く「Victor的楽しさ」とは異なり混同し混乱しないよう注意が必要である。
(楽しさの類型は、1ー0ではなく、程度の尺度である点に注意が必要。この点、誤解を招かぬよう"重きを置く"と表現している。)

場(コミニティ)の楽しみを減らしたり不快感を生み出すような問題行動のうち、「対戦相手に死ねと連発する」、「敗者を雑魚とけなす」、「糞ゲーとゲーム自体をけなす」といった問題行動を起こす者を観察すると、この楽しさに重きを置いていることが多い。

2-2「Eggheads的楽しさ」とは?

「Eggheads(エッグヘッズ)的楽しさ」とは、一言でいうと「知識をひたすらに身につける」ことによる楽しさである。

これに重きを置くものは、純粋な知識欲からくる探究者(リサーチャー)的楽しさと異なり、不安や顕示欲、自己尊厳欲が動機となっていることが多く、他人に対してこんなこともわからないのかといったり、求めてもいないのに解説をし始め長々ともったいぶった話し方で知識を披露したり、無駄な知識と言われることに気が狂ったように過剰反応し攻撃的になる傾向にある。森羅万象の知識を得ることを至高だと考える者も存在する。

2-3「椅子取りゲーム現象」と「悪魔への挑戦」

上記の類型のクイズ人達が陥る問題として、「椅子取りゲーム現象(Musical chairs Effect)」と、「悪魔への挑戦(Mephistopheles's proof)」というものがある。どちらも、絶対に勝てない戦いに挑むことによる虚無感等からの脱落である。

いずれも、必ず敗ける、挑んだ時点で負け試合である。
詳しくみていこう。

「椅子取りゲーム現象」

Victor的価値観に重きをおくプレイヤー(享楽者)が、自分が誰かに勝っているうちは楽しいが、プレイ回数を重ねるにつれて周囲のレベルが上がっていき、勝てなくなったところで、勝てなくてつまらないと辞めていく、去っていく現象。

クイズに限らないが、優勝者以外は必ずどこかで敗者となる。王者の椅子はひとつである。(強者は総じて途中で、リサーチャーや、グローサー、ディジションメイカーにジョブチェンジする。トップにいる者ほどその過程で思慮深くなり、下位にいる変われない者ほど堕ちやすい。)

(図と説明)

「悪魔への挑戦」

ものごとを知ることに楽しみを見出すものの中でも、探究者(リサーチャー)的ではなく、貯蔵家(ストッカー)のように知識を得る事自体に楽しみを見出しているプレイヤー(享楽者)が、森羅万象を知り尽くすことを目指して努力を続けるが、知識の海の膨大さに打ちひしがれてやる気をなくし、辞めていく、去っていくという現象。

知り尽くすことがゴールの者は、知れば知るほど世界の広さを知り、それに打ちひしがれる。また、専門家(自分より詳しい者)の存在が見え、それを自分と比べて嫌になってしまう。

(図と説明)

いずれも、楽しみ・関心のベクトルが自分に対して向かっている点で共通している。この原動力は、トップを目指したり、究極の知識の求道は自分に対してのみ向いていれば強さにつながる強力な武器となるが、それを他人に対するマウントの道具や、険しい道のりの辛さにやられた自分が報われるための道具として他人に向けた場合はコミニティに対し色々な悪影響を引き起こす。それが少数であればよいが、大半はストイックな求道者ではなく、マウント取りの愚に陥りやすい。

そこで、こういった楽しみに重きをおく人々ピーポーに対してコミニティ安定化という全体的な観点から対処が必要となるが、そういったスタンスがいずれ陥りがちな問題点を「椅子取りゲーム現象」や「悪魔への挑戦」といった用語を使うことで知ってもらうことが、クイズを楽しむ人々が流出するための防止策のひとつとなる。
客観的認識を得ることで、自分が楽しめなくなることと、周りを不快にさせることを防止する認知科学的なアプローチである。

しかしながら、じゃあ、VictorやEggheadsが危うさをはらむとなれば、一体どのようなスタンスでクイズに臨めばよいのだろうか。梯子を外して、行き先を示さないと結果的に問題は解決せず、結局、コミニティは縮小してしまう。

その解決策の一つが、「わからないを楽しむ」価値観の提示、チェンジである。

3.わからないを楽しむスタンス

では、なぜ、Victor的享楽に重きを置く者と、Eggheads的な態度で知る楽しみを重んじる者は、その先に「楽しめない」や「苦しい」状態に陥る可能性があるのだろうか?その理由を構造的に明らかにすれば、問題解決の糸口となるかもしれない。

考えられる理由は、「参照点を100%に置いていること」が挙げられる。

「参照点」とは、主に行動経済学で使われる用語で、ざっくり言うと、人間が外部の状態を評価する際に使う、理想値のことである。

人間の認知機能は、何かの良し悪しを評価するときに、"今の状態"と"理想の状態"との差異で、どのくらい良いか悪いかを決める仕組みになっている。
例えば、液体が500ml入るコップに半分の250ml入っている状態を考える。今、罰ゲームで青汁500mlを飲み干さねばならないとして、"今の状態"は250mlに対して、"理想の状態(参照点)"は飲み干した0mlの状態であり、このとき理想と現実のギャップを感じて、理想に届いていないという評価となる。
主観的評価は理想と現実のギャップで生じるのだ。

先の二者は、理想の状態、つまり参照点を100%に置いている。Victor的享楽者は、対戦相手に勝つことが理想の状態であり、Eggheads的な態度に重きを置く者は、森羅万象を知り尽くすこと、あるいは、他の者よりも自分の知識量や深さが勝っているのを理想の状態としている。

こうすると、もし相手に負けた場合や、森羅万象の知識を持っていない場合は、総じて「悪い状態」という評価となってしまう。要は完璧以外は失敗となる。また、仮に成功したとしても(そんなことは不可能に近いが)、そのとおりできただけであり喜びはゼロかわずかであろう。

完璧など到達しえないので、かならず失敗が発生する。すると、成功しても0、失敗するとマイナスだから、やるだけマイナスが続くことになる。そういう意味でも負け戦である。

仮に成功する割合を1%、失敗する割合を99%とし、それぞれの場合に得られる喜びを成功でプラス、失敗でマイナスとすると、試行結果はほぼマイナスとなり、成功するまでマイナスに耐え続けれなければ脱落となる。

一方、今この瞬間を楽しみ、ゼロベース思考、”空”を理解し何事も有難いと思えば、参照点が0%のところとなる。こうなってしまうと、失敗してももともと何もなかったのだから±0。うまくいったらうまくいっただけ儲けものでプラスとなる。これは、必ず勝つことが出来る必勝の姿勢である。

わからないことについて、わかっていなければならないこと。とEggheads的な価値観で捉えると出会うものすべてがマイナスとなる。わからないを受け入れ、わからないことはゼロ地点であり、そこからわかるようになるとプラスになる。誰しも小さい頃はそうだったはずなのに、いつしか、わかるとうれしいものはわかっていなければならないものとなる。

セルフエンジョイメント。それは、エゴイズムではない。自分に満足するのではなく、自分ではない、自分も含めた世界に満足する姿勢である。ようわからんけど。

最近、色んなところで、わからない。わかんね~。こんなん知らね~。や、無意識的な無知について意識して触れてまわっていた。

わかるために能動的に調べるのは正直しんどい。だけど、その先に面白ッ!がある。わからない、知らない、に対して、調べてきた面白知識を投稿すると、面白ッ!となる。

ポリネシアが答えとなる問題で、ドリトル先生漂流記なんて名前だけで知らんわ、調べんくていいわ、となった人に対し、ウィキペディアを少し見て「ドリトル先生、シリーズ8作目に月に行くらしい」、「しかも、作者はそれで終えるつもりで、再開まで5年間放置プレーだったらしい。ひでぇ、」と伝えたら、「ドリトル先生そんな話だったの?作者ひどいな!動物後話せても5年間、月だと話し相手になる動物がいないから大変じゃん」「あぁ、ウサギがいるか」と面白がり、さらに「カニの念仏」「イギリスでは、月にはカニしかいないのろ」と伝えると、「みんはやでみたね、カニの念仏。そうか、ヨーロッパだとウサギじゃなくてカニなんだっけね。」と既に持っている知識と紐づけて面白がってもらえたりする。

生徒に対しては色々と疑問をもって調べた方がよいというが自分では実践せず、自分のいっていることは今は無駄だが役立つと自分語りを続ける方をみかけた。クイズの解説配信。源氏物語の巻名、大事だけど、よくわからないので解説はとばす発言に対し、「投扇興と巻名は同じ」と伝えると、そうなの!と面白がって調べにいってくれる。かもめ~るに対して「1950年当時に”~”という文字を使うのが凄い」の解説に対し、「第1回の商品って何だろう?」と問いかけ「21型カラーテレビ」を引き出し、「1950年にカラーテレビっておかしくない?」と気付いてもらい、「くじつきとなったのは昭和61年から」にたどり着いてもらう。当たり前のことに疑問をもち調べて確かめ面白がる。問いかけの技術、世界に対してどのように疑問文をことばにするかの技術が足りないのかもしれない。

昔、試しに末弟にある物事について、質問をできる限り挙げてみてといって、数個しか、しかもゆっくりとしか出てこんかったのを思い出す。変なことをいったらバカにされる、失敗してはいけないという正解主義からくる無意識の抑圧が邪魔をする。ここらへんは、おちんちんメソッドを使えばよい。とりあえず、おちんちんと答えて、そこから修正を重ねて正解に近づいていけばよい。あれ?クイズの話なのに、おちんちんおじさん?まずい、後で、独立させて消そう。


問題は、その次、"わからない"から能動的に面白がるフェイズにどう至るか。

そのための、「わかる」ための方法、知見が、クイズ論2000以降のQuizologyにはごろごろと転がっている。

わからないはチャンス。伸びしろしかない。

そういうことなんじゃないのかなぁ。(終)

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