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わざわざ言うことでもないこと

わざわざ言うことでもないことをわざわざ見せないでもいい人に見せたい。

自分が働くことに生きるためだけで良かった時代があったというのを何冊かの本にかいてあった。自分が食べるもののために働くだけの人だらけだった時代があるらしい。そのあと、文明の発達とともにそれ以外の目的が働くことに混ざっていったらしい。

自分が物心ついた頃には、人にはそれぞれのやりたいことが体の中のどこかにあってそれを見つけることが善いことになっていた。それを見つけるために学んだり試したりすることが勧められていた。それに従ってやりたいことを探したし、それなりに見つけたと思っていた。

自分から見ても他人から見てもやりたいことをやってそうな自分をした結果、心身ともに疲れた。その時に、別にやりたいことではないと思った。疲労からくる合理化なんじゃないかと思った時期が長く続いた。それから今でも考え直すけどそれほどやりたいことなんてない。

それでも今の仕事やそれに関わることをやっていることが楽しいのは一つのことに集中する時間があるからだと思う。それが自分が過去に経験した小さな嫌なことを忘れるために役立つからだと思う。それが自分の未来に対する不安を忘れるために役立つからだと思う。

忘れるためになんでもいいのかというとその通りだと思う。だけど、それを実現するには高度な集中が必要になる。高度な集中には高度な技術や知識がいる。それができるのが今までしてきたことによって実現できているんだと思う。

はじめに思ったやりたいことは華やかで輝かしい誰もが羨む積極的なものだった。今思っているやりたいことは地味でなんでもなく、様々なことで代替可能な消極的なものだと思う。それでも今の自分にとってはそれがやりたいことになっている。ただ、それには情熱がない。情熱のないことをしたいのだと思う。

一昨年に挿し木として育て始めた紫陽花がこの梅雨に花を咲かせた。去年の年末にもらったバラの種は発芽して10cmくらいに育ってきている。コーヒーの淹れ方にお湯の温度が大切だと知り、そこそこ美味しく淹れられるようになった。

地味で消極的な生活を送ることに引け目がある。社会に対してというより情熱を持っていた過去の自分に対して引け目がある。そんなことをわざわざ言う必要もないし、それを人に見てもらう必要もない。でも、誰かに見られることで自分に言い聞かすことができるんだと思う。

この夏のゴーヤの収穫量が楽しみだ。

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