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何が正しくて、何が間違っているのか

何が正しくて何が間違っているのか?

「自分の発するコメントの信頼の精度をより高めていきたい」

これが私が哲学を勉強する目的の一つだ。

我々は、システム1(反射的判断)、またはシステム2(意識的判断)に基づき、目の前に現れた問題に対して、何らかの判断をし続けている。

その根拠は何だろう。我々はなぜそう判断したんだろう?

企業人であれば「儲かるか?儲からないか?」が判断の基準になって、その判断の根拠も突き詰めるとシンプルだ。そして結果も「数字」という形で出てくるので、その判断の確実性の検証もしやすい。最近は社会性みたいな判断基準が出てきて一見「儲かるか儲からないか」から離れている様に見えるが、社会性がないと儲からなくなってきたから、社会性が重要になっているだけで、そうでなくなったらまたその判断基準も変わってくるだろう。

公務員であれば「公僕として、国民や都道府県民、市民の役に立っているか?」がその判断基準になるのかもしれないが、私は経験していないので想像でしかない。

例えば仕事以外のことではどうだろう。自分はどう生きるのか?子供にはどう育って欲しいのか?家族との関係においては?などなど、自分と関係する人間との間においては、そう簡単に根拠となる判断基準が明確でないことに気づく。

そこで、我々が今「正しい」と思っているその源流を辿っていくと「やっぱりそうじゃないな?」と思うこともある。それは新たな気づきで、では「そうじゃないならどう考えるのか?」と、より突き詰めて考えていく。

これが哲学の世界。

もちろん自分が住んでいる社会がイスラム教社会でイスラム教徒であれば、イスラム教の教典あるいは聖職者にその判断を任せるということになるのかもしれない。

でも信仰を持たない人たちはどうやって、考えるのか?あるいは信仰の違う人たちとの間、信仰を持たない人と持っている人たちとの間ではどうだろう。

自分自身として「こうありたい」という判断。他の人との関係の中で「こうありたい」という判断も当然違ってくるかもしれない。

そうやって、原理的に突き詰めて考えていくのが哲学の世界。だから「考えざるをえない」のです。

*写真:埼玉県 幸手市 権現堤

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