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日本は雑種「日本習合論」内田樹著 書評

<概要>

「日本は本来雑種的である」とし、神仏習合を代表例に雑種的であることが、今台頭しつつある原理主義を排除し、持続的な社会をつくっていくことになることになるとした「雑種文化日本」礼賛の書。

<コメント>

個人的に神仏習合に興味があるので、本書を手に取って読んでみました。著者は神仏習合が本来の日本の特性を具現化した文化形態だとし、日本は加藤周一が論じたように「雑種文化」である、としてその論を展開しているのが本書。

著者が本書を書いた動機は、ここ10年ほど「異物を排除して原初の清浄状態に戻せばすべては解決する」というような言説が増えてきていることに「恐怖心」を感じたからだそうです。多分これは右翼的原理主義が増えてきていることを指しているのかもしれません。

■日本のアイデンティティは「雑種文化」

何を日本のアイデンティティとするか、について今は「平和と人権(啓蒙主義の一つ)」が(日本国憲法に書いてある通り)日本のナショナルアイデンティティなんですが、最近は戦前のナショナルアイデンティティだった国家神道を日本のアイデンティティとして復活させようとする動きが増幅しているので、これを指して「恐怖に感じている」としたのかもしれません。

「人権」に関しては戦後、米国から押し付けられたわけですが、そもそも西洋的な「人権」思想と日本的な「雑種」思想は、なじみやすい、というか、偶然にもマッチした思想だったといえるのではないでしょうか。双方とも「お互いを認めあおう、そして受け入れよう」という考え方ですから。

著者のいう通り、日本列島に住む我々は本来雑種をそのルーツとしており、明治政府が130年前に創造した国家神道ではもちろんなく、本来の日本のルーツたる雑種文化は、偶然にして西洋的「人権=多様性」に結びついたのではないかと思います。神仏習合がその好事例です。

著者の場合は、明治時代以降 西洋から取り入れた自由民権思想は、「軍が実権を握って以降敗戦までは、なかったものとすべき」という司馬史観と異なり、大正デモクラシー以来、黙々と続いてきたはずだ、としています。

日本は、DNAからして縄文人・弥生人・古墳人が段階的に混血して 今の日本人になったわけで、そもそも「雑種」というのが遺伝的にはもちろん、文化的にも日本特有の特徴。できるだけ様々な考え方を受け入れ、共存させ、多様性を重んじて混じり合うことこそ日本の文化の強みでもあります。

先日読んだマット・リドレーの「人類とイノベーション」によれば、生物の生き残り戦略たる自然淘汰も、イノベーションを誘発する土壌たる原理も、みな「混ざり合うこと」ですから、持続的に混じり合う雑種文化だという日本は、まさにイノベーションを誘発する優位性のある文化といえるかもしれません。

■農業も雑種文化が必要

(これは私の意見です)

著者は「第4章 農業と習合」のなかで、食料だけはマーケットに依存せず、かつ近代的大量生産農業に依存せず、里山農業的、原始的手作業による農業に戻るべき、という主張をしていますが、これがなぜ雑種文化と結びつくのか理解できませんでした。

もちろん、里山を守るべく農業は参加者の共同出資やクラウドファンディングなどで設立し人的資本含め無償の形で提供しつつ、みんなでその収穫を分け合う、的なものはどんどん増えていっても面白いと思います。

一方で近代化の成果である安くて大量に農産物を食卓に提供するというチャネルもちゃんと残さないと、世の中、超割高な農産物ばっかりになり、貧困者はメシが食えない状態になってしまいます。何事も多様性です。雑種文化です。特定のチャネルを否定するのではなく、法の支配に基づいて様々なチャネルを共存させ、あとは消費者が選択すればよい。

■食料自給率の問題

(異論です)
本書では、里山農業推進の流れで、日本も米国などの大量生産農業に頼るのではなく、国内の農業を復活させて自給率を上げるべきだとの主張ですが、ではその犠牲者はだれでしょうか?という視点がありません。

犠牲者は貧困層です。内田さんのような富裕層は、里山農業の割高な農産物も買えるでしょうが、日々生活に汲々としている貧困層は米国産などの大量生産方式農作物でないと高くて買えません。そしてそれらが有害なわけでもありません。パンデミックなどの有事で食料が輸入できなくなるリスクはいったいどれだけの確率でしょうか?極小なリスクを心配するよりも国際貿易をちゃんと機能させることがまずは政治の進むべき政策であり、農産物の国有化は貧困層を苦しめるだけです(ちなみに主な食糧輸入先は米国やカナダ、豪州などの西側諸国)。

一方で農林水産省では食料自給率ではなく、食料自給力指標という概念で、すでに日本は最低限飢えずに済む状況(以下「食料自給率目標と食料自給力指標について」参照)

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(農林水産省「食料自給率目標と食料自給力指標について」より)

ここも雑種文化の精神です。里山の有機農業野菜を買いたい人もいれば、外国で大量生産された割安な農作物が欲しい人もいます。選択するのは供給サイドではない。需要サイドの国民です。

*なお、完全に輸入がとまったら、そもそも日本は成立しなくなるでしょう。もし著者の心配をなくすのなら食糧だけではなく、石油・石炭・ガス・ウランから各種鉱物(鉄鉱石・銅など)、あらゆるものを自給する必要があります。農産物を自給してもそれを運ぶ物流網や調理するエネルギーやその道具、などあらゆるものが断絶されるからです。農産物の自給だけでは日本は食べていけません。

*ちなみに著者は宇沢の理論を継承して農業従事者は人口の20-30%が理想としています。これも貧困層が生きていけない社会を目指す、というのと同義の極端な主張。農作物が少数の農業者により機械化と化学肥料によって大量生産できるようになったから、衛生状況改善とともに子供たちの死亡率が激減し(この結果人口増)、貧困率が劇的に下がったというのに。。。また元に戻れというのでしょうか?本当に不思議。

■社会的共通資本も雑種文化が必要

(これも私の意見)
また社会的共通資本(※)は政治やマーケット(民間企業)に任せるべきでない、という、宇沢弘文の提唱した「社会的共通資本」や人新世の資本論で話題の斎藤幸平の脱成長コミュニズムと全く同じ考え方も本章で述べられていますが、いったいこれが雑種文化と何の関連性があるのか、どういう文脈でつながるのか、これも理解できませんでした。

※社会的共通資本=①大気、森林、海洋などの自然環境、②道路、交通機関、電気や水道などの社会的インフラストラクチャー、③医療、教育、司法などの制度資本

仮に雑種文化を推奨するなら、社会的共通資本はワーカーズコープだけに任せることはすべきではありません。必要に応じて役割分担するとともにワーカーズコープ含めた様々な形態を共存させて、あとは消費者たる国民が必要に応じて選択すればよいだけ。それこそ多様性を認める雑種文化で日本本来の姿です。スーパーに、生協も民間企業も共存しているようなイメージです。国民への複数の選択肢の提供こそ雑種文化たる日本の強みです。

社会的共通資本は、宇沢の主張では具体的に政治や民間にまかせず、そのジャンルの専門家に任すべきというのですが、たぶん組織は専門家集団だろうがなかろうが、どんな組織でもガバナンスが利かなれれば、必ず腐敗し、権力者の利権が跋扈します。

腐敗や管理者など不正な利権を防ぐためのガバナンスは、マーケットであり主権者である国民(に委託された第三者機関)です。そのためには専門家集団のような閉鎖的硬直的組織ではなく、複数の民間やワーカーズコープにある程度任せつつ、公的機関がチェックできる体制が必要。もちろん安全保障・外交や警察、自然保護のための土地利用の制限など、国家に任せるものもあれば、鉄道や通信など民間に任せるべきものもあり、学校や医療のように公営・私営・ワーカーズコープ共存など、様々な事業によってその役割分担や半官半民、共存などの違いは生じるのではないかと思います。これが雑種形態です。

つまり、基本はマーケット(=消費者たる国民)に依拠させて需要と供給のバランスをとりつつ、公的機関が必要に応じて財やサービスがユニバーサルにて供されるよう制御する方が、最小の国民負担で最大の効果を望めるのではないかと思います。

■企業や投資家(株主)に対する誤解

(私の意見です)
わたしが、バブル時代に入社したころは、職場旅行があって運動会があって、グループ対抗ソフトボール大会(労使共同)があってと、まだまだ運命共同体的活動は盛んでした。ノミニュケーションも当たり前で、濃厚な職場環境。こんな環境なのでセクハラ・パワハラ当たり前、というかこれも濃厚な人間関係の一環でした。

著者は、自由が行き過ぎてコモンが減ってしまっている、というのはその通りだと思います。だからといっても企業がすべてコモンを担う必要はありません。今でも一部の企業は運動会をやっている企業もあるらしいですが、それも多様性に任せればよいだけです。最近の若者は昭和の企業文化の名残であるノミニュケーションすら嫌がる人が多いらしいのですが、それも自由です。

ちなみに著者は「投資家(株主)は職場が明るかろうが、暗かろうが関係ない。利益があがればそれでいいのだから」「地域と共存なんかしないで利益だけむさぼる」といいますが、これも企業や投資家のことをあまりよく理解していない感じの発言です。彼は短期で株を売買するデイトレーダー(投機家)がメジャーな株主だと思っているようですがこれも誤解です。本来の投資家は社風含めた定性的な企業の状況(非財務情報)含めて細かく経営を分析しています。

なぜならそういったものが企業の実績(具体的にはROE=株主資本利益率)に影響してくるからです。そもそも職場が暗くてブラックな企業には優秀な人材が集まりません。経営学では「利益に直結するCS(顧客満足度)を高めたいならES(従業員満足度)を上げろ」というのが定説です。従業員の満足なしには企業は利益を上げられないのです。地域との共存もできなければ企業は成り立ちません。地域に受け入れられない企業には人も情報もお金(投資)も集まらないし、そもそも売り上げが立たない。

特に日本にいると株主は短期売買を繰り返すものだという風潮がありますが、世界的には株主は長期保有でしっかり企業をみていく、というのが主流です。なので大衆のアヘン?たるSDGsだとかコーポレートガバナンスだとかを重要視しているのです。著者いうところのステークホルダー資本主義です。

以上、いろいろ異論はありますが、原則的には著者に同感で、大切なのは日本の本来の文化的特徴である「雑種」な社会を維持することだという原理です。

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