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近代市民社会の原理は本当に普遍的か?

これまで勉強した結果、認知革命としての人間社会を制御する普遍的な価値観(社会の虚構)は、基本的人権の尊重や自由・機会平等などのいわゆる近代西洋が発明した「近代市民社会の原理」ということになっています。

とはいうものの、中国・北朝鮮・ベトナムなどの共産主義を名目にした独裁国家、サウジアラビア・UAEなどの中東諸国の王家による独裁国家から、軍事政権や情報操作等による緩やかな独裁国家のロシアやエジプト、カンボジアはじめ、近代市民社会の原理が明確なルール・規範とはいえない国家も70億人の人口を抱えるこの世界において多く存在しています。

これらの国家は、まさに香港における人権拡大に向けたデモに対する中国のように簡単に「悪」として断罪していいものなのかどうか一概に言えないのではないかと思いつつあります。つまり「近代市民社会の価値観」も絶対ではなく、状況状況によってそうでない場合もあるのではないかというわけです。

というのも、人間にとっては「人権」より優先させるべきものがあり、それは「衣食住の充足」であり、安全な社会(安全保障面、治安面双方)であり、公衆衛生の行き届いた環境であり、人によっては「経済的豊かさ」です。

例えば、貧乏でいつ餓死するかわからない状況ではあるものの、民主主義国家で個人の人権は保障されている。ただし社会保障に関しては国家の経済力の問題で行き渡らせることができない、となればどうでしょう。

まずは「衣食住の充足」が最優先であり、いわゆるファクトフルネスにおけるファクトに基づけば、低所得国に暮らす人たちは、少なくなったとはいえ「人類の9%(6.3億人)」はいるわけです。国家単位でなく個人単位で分類すれば「レベル1=毎日の暮らしもやっとっこさ」という人たちは10億人いるらしい(ファクトフルネスより)。彼らにとっては、まず優先すべきは衣食住の充足であり、人権は不要。民主主義か独裁かはどうでもよく「食っていける国かどうか」が最も重要な価値観。

中国を例にすれば、毛沢東時代に比べれば、遥かに経済的豊かさを享受し、紅衛兵による拷問のような身の危険もなく、ニーハオトイレ(扉のないトイレ=不衛生)も激減した現代は、過去に比べれば奇跡的に良い社会。中国共産党の指導によって、もちろん差別的な体制(農民と都市住人によって違う身分証等)だとか言論の不自由などの課題はあるものの、50代以上の中国人に聞けば、大半は今の政権を支持するのではないかと思います。

彼らにとって香港人は、せっかく順調に発展してきた中国の秩序を侵す存在であり、目の上のタンコブであるかもしれないし「人権」は贅沢な悩みに移るかもしれない。

むしろ社会の混乱によって、これまでの安全で経済的豊かさが享受できる社会を失ってしまうという不安が募ってしまうかもしれない。

考えてみれば、衣食住が充足した社会というのは、過去の歴史においても「マレ」な時期。最も重要な価値観は「なんでも言える社会」ではなくて「食っていける社会」であって、民主主義で食っていけない社会(かつてのインド?)よりも、清朝康熙帝の食っていける王朝独裁国家の方が「善い」社会であるのは間違いない。

そういうわけで「近代市民社会の原理」が本当に普遍的価値感といえば、それは時と場合によるわけで、安易に「普遍的」とは言えないのではないか。

衣食住の満ち足りた安心安全な国家に暮らしている私たち現代日本人にとって「近代市民社会の原理は普遍的な価値観=虚構」というのは「その通り」とは言え、果てさて、このように時間軸・空間軸の概念を加味した時にどのように考えたらいいのか?

やっぱりそうすると欲望論の価値の原理「人間社会における真善美の価値審級は、人間が形成する集合的言語ゲームから、このゲームのうちでのみ現れ出、成立し、維持される」に戻ってしまう。

やはり普遍的な価値観はないわけで、我々が一番と思っている「近代市民社会の原理」も、重要な価値観とはいえ西側先進国だけの価値観であって、それを他の国に強制するのは、時と場合によるかなと思います。

*写真:スイス連邦 ジュネーヴ市 ルソー生誕地

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