個人は社会に規定されている
「社会心理学講義」 小坂井敏晶著 書評
【概要】
個人と共同体(=社会)の相互関係性を解明しようとする学問「社会心理学」の手法に基づき「外的要因(=社会制度と遺伝)によって形成される個人と社会」という関係性を紹介したのち、社会について、同一性=閉ざされた社会(フェスティンガーの認知不協和理論)と変化=開かれた社会(モスコビッシの少数影響理論)、それぞれの個人と社会の相互影響関係を紹介した著作。
*ちょっと中身が広く深い著作なので「個人編」と「社会編」に分けて展開します。
【コメント】
Noteのフォロワーさんに紹介してもらって読んでみました。
最初に「常識は虚構」として、常識を相対的にみる手法が学問(特に人文系)で、自然科学も多数の科学者が合意した仮説(カール・ポパー)に過ぎないとし、学問の性格を位置付けた上で、本論を展開。
◼️個人とは何か
個人とは、親から受け継いだ遺伝と自分の生まれ育ち生きている外的環境によって規定される「沈殿物」として「自律的主体」はない
と著者は定義しています。
例えば「私」はどこにもなく、不断の自己同一化によって今ここに生み出される現象であって「私」は社会心理現象。いわば、社会環境の中で脳が普段に繰り返す虚構生成プロセスそのもの(第3講:主体再考)。
したがって心理学は、進めば進むほど、主体が消滅していくというパラドクスに陥ると解説。
脳科学的にもあらゆる実験検証の結果として「意志が発現する前に行動が先に起こり、意志という意識は後から生まれるもの」というのが定説になっているので、「意志」を「個人」と言い換えれば、脳科学的にも同じ現象が起きていると言います。
今まで「主体は存在しない」という説は聞いたことがなかったので、最初はびっくりします。
確かに考えてみればその通りなんですが、なぜか深い納得感は得られない。
なぜなら、著者がいう外的要因のみで形成された「沈殿物=虚構生成プロセス」そのものが「自分(=自由意志)」だと私は思ってるから。
著者がいう通り、自由意志のベースとなる個人の虚構(価値観)は、遺伝に加え、全て外から自分が影響されたもののみで形成されているもの。
なんで外的環境に特化して例え、私が戦国時代の武士に生まれていれば人殺し(仲の良い知り合い以外)には全く罪悪感を感じないでしょうし、ナチスドイツに生まれれば、分業された体制内で同じように罪悪感を感じずにユダヤ人を殺すその片棒を担いでいたでしょう。でもこれは今ここにいる「私」ではありません。
今ここにいる「私」は、今この時点に至るまで止まることなく私自身の虚構を内面化し続け、内面化し続けている虚構が私の「快不快」そのもの。人殺しは、たくさんの人に深い悲しみを生み、罪深くて絶対できないしそんな勇気もない。血もみたくない。そもそも人を殺したいという動機がない。それが「今ここに生きている自分」。
そして内面化された虚構は、意識・無意識かかわらず行動も支配していると私は思っています。行動が意志を規定するのはその通りですが、行動を発するのも内面化された虚構のなせる技だと私は思っています。なぜならその行動が妨害されれば「不快」な感情が起こり、妨害されなければ「快」の感情が生まれるから。
どんな人間も、その時の状況によって「意思決定」が変わってしまうという、社会心理学実験も紹介されていますが、それもわたし的にはそのような環境に置かれた被験者は、どんな人であれ同じ実験結果を生んだとしても、それも含めて「被験者の自由意志」ではないかという感じ。
したがって著者と私と何が違うかというと「意志」の概念が違う。
私のイメージは、自分の意志(欲望と関心から発する思考)は、社会に規定された個人から生まれる意志であっても、その時の自分のこの意識に立ち上がってくる欲望と関心以外何者でもない。そして意識の前に起動する行動もその例外ではない。
以上、著者と認識が違う部分が多いとはいえ
「個人の意志決定は社会に大きく影響される」
という各種仮説は、初めて出会う仮説が多く「なるほど」感が満載で、非常に興味深く楽しめました。
*写真:北海道 オンネトーの水芭蕉
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