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正義の本質に基づく政治思想の評価

上記書籍、西研著「哲学は対話する」より、引き続きです。

正義の本質を精査した上で、社会主義やリバタリアニズム、功利主義など、民主主義以外の政治思想を評価すれば、自ずとその是非が判断できます。どれも非常に納得感の高い論です。

■社会主義

社会主義の失敗は、自由の権利が国家・社会において何よりも重視されるべきこと。また経済は市場経済を基本としながらそれを調整するという仕方でしか運営し難いことを私たちに教えてくれた

とし、社会主義を採用したソ連や中国などの国家の能力が低かったから失敗したのではなく、失敗せざるを得ない政治思想だったとしてます。

個人的には経済を人間が制御できるわけもなく、永遠に好景気にできるなら社会主義ほど理想的な理念はありません。社会主義は、道徳的にも能力的にも人間を過信しすぎた思想だったような気がします。

ただ、社会主義の実態は、スターリン、毛沢東、金日成などの独裁者が自身を正当化させるための大義名分であって、絶対王政の大義名分としての王権神授説と同じようなものではないかと思います(中国の儒教も維新政府の神道も皆独裁を正当化するための社会の虚構で同じ)。

■功利主義

功利主義ではベンサムの「最大多数の最大幸福」という標語がよく知られているように、社会全体の福利(快ないし幸福の総量)を増やすことが正義であるとされる。しかし社会全体の福利の増進と個々人の権利の尊重とは、時に対立することがある。

としてネガティヴ。正義の根拠「共存の約束」から判断すれば、一人ひとりの権利を尊重することも全体の権利を尊重することも双方とも正義であり、どちらかを選択する行為は正義ではありません。いわゆる「トロッコ問題」は「問題設定自体がおかしい」という評価です。

ただし、現実問題として功利主義をとらざるを得ない場合もあるのではと思っています。自動車は毎年日本だけでも数千人の人を殺しますが、それ以上の便益を世の中にもたらしているという理由で、受容されています。コロナ問題でも原発問題でも地震津波対策などの防災問題でも、みな現実の政治では「最大多数の最大幸福」ロジックで判断せざるを得ない機会が多いともいえるのです。その場合、程度の問題があるとしても功利主義的立場も有効な場合があるといえます。

■自由至上主義(リバタリアニズム)

自由の権利は神からやってきたものではなく、私たちが国家(政治的共同体)をなして、互いに平和共存しようとする約束、つまり「共存の約束」をしているところに、その根拠を持っているはずである。法も権利も政府の目的も、全て「共存の約束」にこそ、その正統性の根拠がある

とし、自由の権利は人々の共感に基づくものから発する二次的なものであり、絶対的なものではないと否定。共存の約束、つまり「互いの共存にとって好ましいかどうか」という視点でいえば、各人の自由な活動のための諸条件(インフラ、教育、医療、生活保護など)も必要であって、完全な自由では「共存の約束」は果たせません。

そもそも個人が獲得した財産は100%個人の能力と努力だけで獲得したものであるわけがありません。個々人がその時に与えられた外的環境の要素も強いわけで「首都圏の小作農が戦後の農地改革で手にした農地を売却して土地成金になっちゃった」みたいに、運だけでお金持ちのなった人もいっぱいいるわけですから。

ただ政府の再分配機能や主権制限などは、どの程度まで許されるのか?は議論の余地がありそうです。リバタリアンが「ここが問題だ」というのもよく理解できます。

私自身は日本国憲法の理念に共感しているので、現行通りの運用(最低限の生活保障や国民皆保険、義務教育など)に概ね賛成ですが、今のようなパンデミック有事の時は、西洋諸国のようにある程度の主権制限も致し方ないのかなとは思います。

以上、上記のうち「功利主義」「リバタリアニズム」や、「ロールズの正義論」は「自由」の中でも「経済的自由」に比重がおかれた政治哲学で「人権」「表現や信条の自由」のような「政治的自由」の領域とは、また違った領域を扱っているといってもよいと思います。

(なおロールズは「政治的リベラリズム」において「政治的自由」を扱っている)

その他、サンデル教授で有名なコミュニタリアニズム=共同体の物語優先主義と近代的正義の関係については、興味深い問題なので別途展開します。

*2013年 伊豆 河津桜

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