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自由を追求すれば自ずと資本主義になる

『人新世の資本論(斎藤幸平著)』に関して私はネガティブですが、本書を読んで、いろんな気づきが生まれたので、お金を出して読んでよかったなと思っています。

前回は、1980年代の中国、結果平等の世界が残存した世界を思い出しました。今回は「自由を追求すれば、自ずと資本主義になる」という仮説です。

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ジャガイモ栽培のグローバル化(1600年代)、化学肥料の発明(1908年)や丈夫な小麦(農林10号、1935年)の登場によって食糧の大量生産が可能になって以降、第1次産業が人口の大半を占める社会は終焉し、第2次・3次産業中心の社会が到来。この時代にあっては、第1次産業に縛られずに多種多様な産業が発展し、どんな組織であれ、供給サイドに立つことが可能になりました。

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例えば公営による運営の方が効率的に運営できる、と判断すれば、選挙に基づいた民主主義政治によって公営にすればよい。民間の方が効率的だと判断すれば、民間に任せればよい。日本がかつて鉄道・電話・塩タバコなどを民営化した一方、水道事業は民営化しませんでした。

利益を目的としない民間にしたければ、学校のような公益法人もあるし、NGOやNPOもあります。民間か公営か、の単純な二者選択でもありません。その対象ごとの最適解を当て嵌めているのが自由社会です。

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何を民間に任せ、何を公的機関に任せ、何を非営利団体(公益法人やNPOなど)に任せるかは、その都度時代の要請にあわせて変容させていけばよいし、その変容はマーケットや世論&選挙行動に任せば良い。

つまり、賄賂やコネ、闇社会などが蔓延らない公正な社会では、供給サイドの組織運営の形態は、どんな形でもOK。あとは国民が選挙と消費行動によって選択するだけ。この結果として企業や個人が利益増大を目的とした資本主義がメインの社会になっているわけです(一般的に利益を目的とした組織は、そうでない組織よりも需要側のニーズを満たしやすいという結果)。

なので資本主義をやめさせたければ、何らかの権力による意図的な統制が必要になる、つまり自由な活動は制限される、ということです。統制社会です。

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逆説的なのは中国で、鄧小平が実権を握って以降、中共独裁は維持しつつ経済のみ自由に転換した結果、自由な経済活動が可能になり、西側経済圏に参画できたこともあって、自由貿易の有益性も享受しつつ経済成長。政治的自由は開放しませんでしたが経済的自由は開放した結果、意図せずとも資本主義が主体になった社会になったわけです(国営企業も残存)。

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自由社会では、斉藤幸平さん主張の民主的なワーカーズコープ(労働者協同組合)による国民へのモノコトの提供も可能、もちろん民間企業も可能。選ぶのは国民であって供給者側ではありません。

もちろん自由なままにしておくと、競争環境が寡占化・独占化によって競争環境が阻害される場合があるので、周り回って国民の不利益になる場合があります。その場合は、公的機関が調整役になれば良い(日本では公正取引委員会)。ポイントは自由にまかせつつ、不都合が生じた時は民主主義政治によって適宜介入していく、という原則。「最初から統制」では自由の過剰な棄損になりかねません。

我々は民主主義がそれなりに機能した社会に生きています。なのでどんな組織でも成立する社会です。そして組織の存在価値とは、その組織が提供するモノ・コトが、提供される側=消費者に受け入れられるかどうか、です。

最近経営学で流行りの「パーパス=存在意義」という概念もこれに当たるのでは、と思います。

*写真:2014年 山梨県(昇仙峡など)

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