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「京都の風土」今に生きる仏教の姿=鈴虫寺

虫が一年中鳴いている寺として有名な華厳寺(鈴虫寺)は、江戸時代に南都六宗のひとつ、奈良東大寺の宗派「華厳宗」のお坊さん「鳳潭上人」が創建した華厳宗のお寺で、その後1868年に慶巖という禅宗「臨済宗」のお坊さんが入山して今は臨済宗のお寺になっています。

鈴虫寺(2023年10月撮影。以下同様)

失礼ながら苔寺(西芳寺)などの周辺のお寺と比較すると由緒ある古い寺ではないためか、集客のために鈴虫を飼って通年中鳴かせ、法話とセットで拝観者を集客しているらしい。

これが見事に当たって大人気に。

相当儲かっていると思われ、寺の下に新しい御堂が建ちつつあります。

実際、歴史上の有名なお坊さんは皆説教が上手で、下世話にいうと集金するのが得意な人が大半です。そうやって説教してお金集められるから大伽藍を創建できて、歴史に名を残しているわけです。

して個人的には、このようなお寺こそが、昔ながらの本当のお寺(というか仏教の姿)ではないか、と思ったのです。学門中心の奈良の南都六宗と違って民衆の仏教というのは、こんな形ではなかったかということです。

行基や一遍などの遊行名僧はじめ、日本全国を遊行して仏教の教えを伝えた聖(ひじり)や比丘尼(びくに)は、鈴虫寺で聞かせてくれるような法話によって民衆に教えを説き、布施をいただきつつ仏教の教えを広めていったのではないか、と思うのです。

一般の民衆・大衆は、仏教の教えを経典などを読むことで信仰しているわけではありません。鈴虫寺のお坊さんの法話のように。面白くて楽しくて、そんな中でも仏教本来の教えがあってそれが私たちの救いになったり人生のアドバイスになったりして、ありがたい教えだと思って信仰につながっていくわけです。

きっと聖や比丘尼をはじめ空海や親鸞や日蓮などのお坊さんも、面白い話をして民衆やときの権力者を喜ばせたり心の平安を与えたりして、その事でお布施を頂戴して伽藍を大きくしたり、自分の生活の足しにしたりしていたのではないでしょうか?

中でも民衆からのお布施というのも相当にあったはずで、ではどうやって布教したのか、と言えばきっと鈴虫寺のようなことをしていたのではないか、と思ったのです。

仮に宗教民俗学者の五来重が鈴虫寺のことを知っていたら、きっと共感したのではないか、と思います。こうやって民衆に興味を持ってもらって教えを広めたんだろう、と。

具体的には、鈴虫寺のお坊さんの法話の中の「昨今只今」という言葉が記憶に残っていて、今でも「いい言葉だな」と思います。私たちは過去には戻れないし未来にも行くこともできません。

まさに今生きるしかない。そんな今を大事に生きようということ。

いかにも現世利益かつ自力本願の禅宗的な言葉ではないか、と思いつつ心に響くいい言葉だな、とも思うのです。

鈴虫寺から京都の街並みを望む


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