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カンボジアにおける負の歴史

カンボジア

カンボジアといえば、貧しい国というイメージが強いだろう。事実、カンボジアはある一人の思想によってカンボジアという国が崩壊した。それまであった文化財や文化、伝統文化、書物などカンボジアの過去を
知るもの全てが、ある男のせいで消失してしまった。現に、カンボジアに残る文化財は、アンコールワットを含むアンコールトムぐらいだろう。

ポルポト

 ある一人の男とは、一体誰のことを指すのか。ある一人の男とはカンボジアでは知らない者はいない男である。その男とは、サロトサル、別名ポルポトである。今回は、ポルポトの全部をピックアップするのではなく、ポルポトが政権を樹立してから、カンボジア国民を虐殺するまでの流れを中心に述べていくこととする。

ポルポト政権の恐怖政治および虐殺

 ロンノルから政権を奪取したポルポトは、自らが掲げる原始共産主義のもと、シアヌーク殿下を幽閉し、完全に外界からシアヌーク殿下を封じ込むと同時に、カンボジアの首都であるプノンペンにいる都市部の人々を皆、農村部へと追いやり、その際に、病気などを理由に動けない者や歩けない者は、猶予なく殺していくなどしていった。プノンペンから農村部に追いやられた都市部の人たちは、これまで農業や農作業を一切やったことがなかったため、病気になって動けなくなったり、あるいは倒れてしまった者がいたが、ポルポトは、彼らを容赦なく殺していった。ポルポトは原始共産主義、すなわち資本主義のような貨幣を通して働き生活するような社会形態ではなく、国民全員が肉体労働を用いて一生懸命、農作業をしてこそ、正義であるといった社会形態の実現を本気で目指そうとした。その過程で、資本主義社会では絶対的に当たり前である貨幣通貨の廃止、すなわち、お金を一切使用できなくしようとした。また、この共産主義というのは、人類は皆、平等に生活・労働しなければならないといった経済格差の皆無、カースト制度や、かつての植民地時代のような奴隷制度といった階級による明確な上下関係を大いに表している主義である。

ポルポトは、こうした原始共産主義を国民に浸透させようと大胆な行動に出る。それが、医者や教師といった知識人の虐殺である。都市部から追い出された人たちが農作業をしている農村部に、ポルポトは、突然、『学校を農村部に作りたいと思っております。そのために、あなたたち教師の力が必要です。なので、その優れた指導力を用いてカンボジアのために教育をやってください。』と言い放ち、集まってきた教師、すなわち先生を片っ端から虐殺していったのである。これは、教育をカンボジアに浸透させようとするものではなく、寧ろ逆で、どうすれば教師のような、ポルポトにとって邪魔な人たちを消せるのかを考えていたのである。ポルポトにとって、教師のような知識人は非常に邪魔な存在であった。また、眼鏡をつけている者や、本が読める者は、頭が良い者とされ、即虐殺したのである。さらには、当時カンボジアから何かを学ぼうと他国へ留学していた人たちを、カンボジアの国づくりのために呼び戻し、次から次へと殺害していったのである。これも前述と同じポルポトにとって邪魔な存在であったためである。こうした事態であるが、知識人を虐殺していったことで、専門家のような、頭のいい人たち、すなわちエリートが皆、殺されてしまったのである。ポルポトは、虐殺する方法として、一般的な銃やライフル銃といったものではなく、斧や鎌といった農業でよく使う道具を振り下ろしたりして収容所に連れて来られた人たちを殺害していったのである。何故、銃ではなく農具を使用したか。それは、ポルポト政権はとにかく資金となるお金がなかったからである。

ポルポトは、このような虐殺をしたものだから、殺害された人の家族や親戚からの復讐を防ぐために、その家族や親戚ごと皆殺しにしてしまったのである。また、ポルポトは、カンボジア人に対し、『今のこの状況は、カンボジアにスパイがいるからだ』と、いもしない敵、すなわち仮想敵として南ベトナムを侵攻し始めた。しかし、当時の南ベトナムは、ベトナム戦争中にアメリカ軍が駐留していた影響で、米軍の最新兵器などを沢山保持していた。当然ながら、ポルポトを主軸とするクメールルージュは、お金もないので農具で対抗していたなど、勝てるはずもなかった。また、負けた要因として、一つは上記で述べた通りだが、もう一つあるとされており、それは知識人などの詳しい専門家などを虐殺してしまったものだから、情報を得られなかったというのもあるとのことだ。その後、ベトナムはヘンサムリンを主軸とする軍が、ポルポトに反撃し、すぐにポルポト政権を滅ぼし、ポルポトは自分に従う者を連れて、タイ国境付近に逃げ込むことになる。このベトナムの侵攻は本来であれば、国際法違反になるが、このベトナムの侵攻によって人道的介入という新たな概念が誕生したのも事実である。このベトナムの行動によって国際社会が『今、カンボジアで何が起きているのか』を知ることになったのである。このベトナムの行動が無ければ、さらに多くの人々がポルポトによって虐殺し続けられていただろう。

最後に、

この虐殺の真実を忘れないためにも、我々は S21(トゥールスレン虐殺強制収容所)やキリングフィールドを自分の足で訪れ、平和について真剣に考える必要があると言える。今、私たちが住んでいる広島も、アメリカ軍の戦闘爆撃機エノラ・ゲイに搭載された原子爆弾によって、街を破壊されたわけであるが、やはり、こういった虐殺や内戦、戦争は今日までの過去で終わりにしなければならない。キリングフィールドや S21(トゥールスレン虐殺強制収容所)を訪れるのは、今は難しいが、新型コロナウイルスが収束した後、実際に訪れて、平和や今、当たり前のように生活できることについて考えてほしいものである。

個人的見解

歴史を遡れば、スターリン(本名ではない。本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・ジュガシビリ)、ヒトラー、毛沢東による社会主義および共産主義を目指そうとした独裁者が存在していたわけであるが、このポルポトが犯したものは、非常に残虐であり、言葉では表せない感情である。私自身、カンボジアには渡航歴があり、クメールルージュに参加していた人に話を聞いたことがあるが、実に生々しく、何かを考えさせられるものであった。ポルポトという人物が犯したこの過ちは到底許されるものではないとともに、この出来事を絶対に忘れてはならないものである。

【過去に、カンボジア行った際の記事↓】

また、上の記事は、カンボジアが1979年1月7日にクメールルージュより解放された日であったため、記事を執筆しています。

今後も、歴史、科学、スポーツ、時事問題、国際協力、政治、国際問題など幅広いジャンルについて執筆していきたいと思いますので、何卒宜しくお願い致します。

長くなりましたが、最後まで見て頂き有難う御座いました。

#カンボジア #ポルポト #サロトサル

#トゥールスレン強制収容所 #キリングフィールド

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