告別式に出席して

今週は身内に不幸があったため、告別式に出てきた。
かつて祖父母が亡くなったときは相当落ち込んだりもしたが、今回はそこまで辛い感情は無かった。
良くも悪くも、人間の感情は辛いことに「慣れる」ものなのだと実感した。
きっと、自分の心が壊れないようにするための自衛本能なのだろうか。

真言宗のお坊さんが式の終わりに話してくれたことが、今でも頭から離れない。

仏教の教えには次のようなことが書かれています。

親しい人が亡くなると、残された人の中には2本の矢が刺さります。
一つは悲しみの矢、もうひとつは後悔の矢。
「悲しい」とか「生きている間に、もっとこうしてあげれば良かった」
と、自分の心を追い詰めてしまいます。

残された人にとって大事なことは、その2本の矢をできるだけ早く抜き去ることです。
亡くなった人は、残された人がそういう風に悔いることを望んでいるわけではありません。

皆さん小さい頃、タンポポの綿毛をふわっと飛ばして遊んだことがあるでしょう。
ああいう感じで、自分の中に刺さった矢を抜き去って飛ばし去ってしまうこと。それがとても大事です。

どうか、今日は皆さん、心穏やかに見送ってあげてください。
こんな感じのこと

言っていることはそこまで特殊な内容では無いのだけど、ストンと腑に落ちる感覚がした。
お坊さんという立場の人がそう言うからなのか、低い落ち着いた聞かせる声だからなのか。

祖母が亡くなったの時は死に目に会えず。
祖父の時はギリギリ看取ることはできたけど、直後に自分が入院してしまい告別式に出ることができなかった。
母が後から葬式の写真を見せてくれたけど、それでも自分の中に後悔の気持ちは残ったままで、結構引きずった覚えがある。

かつて実家で飼っていたコーギーが亡くなった時も、どう気持ちを切り替えたらよいかわからず、しばらく悶々としていた。
何か月もたってから犬の抜け毛とかが家具の隙間から出てくると、それだけで涙が滲むこともあった。

人であれペットの動物であれ、いざ居なくなってしまうと「もっとこうしてあげればよかったな」という気持ちがどこからともなくあふれてくる。
そういう後ろ向きな感情に押しつぶされてしまわないように、気持ちを入れ替えなければならないし、それは決して亡くなった人への裏切りなんかではないのだと。
寂しいのは変わらなくとも、少しだけ心が軽くなった気がする。

その影響もあって一時的に更新頻度が落ちてしまったが、また気を取り直して書いていく。
平均すると2~4日に1回くらいのペースで記事を書いていることになるだろうか。(ちゃんと計算はしてない)

その都度思いついたことを全力で出し切っているので、いつか書くことがなくなってしまうのかもしれない。もどかしい。

ただ、自分の中で取っておきの記事ネタが思いついたとして、それを出し渋っているうちにブログ更新の習慣がなくなってしまうくらいなら、ためらわず公開しておいた方が良いというのが自分なりの学びである。

今週もお疲れ様でした。

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