統一教会の存在意義

内部に居た為知っているものを晒しておくと、統一教会の協議としては原理講論や真の父母経があったりするものですが、またそれとは別に自叙伝が書かれていたりします。それは文鮮明の宗教家として自分を世界のメシア、再臨主としてキリストの後を継ぐ者として目指す功績が書かれています。

どう言った生い立ちでどのようにして育ち、世界的な背景がどうあったからそういう道に目指すことになったか、という内容がありますが、特にそこには嘘偽りは無い気がします。ただ、自分もこの文鮮明に対しては世界が誇る変なおじさんだと思っています。ミスタービーンも志村けんもびっくりする内容がありますから。

文鮮明は現在の北朝鮮で生まれており、北側の生まれということになっています。第二次世界大戦の真っ只中の生まれということもあり、母国朝鮮に迫ってきていた日本の事を日帝と揶揄していたそうです。まあ、戦争中には敵対する国の事を揶揄して当然だとは思いますが、この時代的背景が教祖として目覚めさせた背景になるのだと思います。

どうして人は争うのだろう、どうして人々は憎しむ闘争を続けるのだろうと深く祈りに山で入ったようです。まあそこまでは分かる。分からんでもない。

そこで日常的に山に通いつめることからイエス様が目の前の現れて、貴方に私が成し遂げられなかった事を果たして欲しいとお願いしたそうです。

ここが文鮮明を再臨主、メシヤたる存在にさせる原点的エピソードだそうです。

じゃあ実際に2000年前のイエス様は圧倒的な全体主義であってお金で問題を起こすようなメシヤ像だったかと言われると違います。

イエス様自身は人々に寄り添う励ましをなさった方であって、お金を稼ぐ職業の人を忌み嫌っていました。時代的背景が違えど根本的なメシヤ観を知っているのならばハッキリと実像が違うと分かるはずです。

はっきり言うとイエス・キリストの名前を借りてのし上がってきた人物だと言えます。

社会的に嫌われて生きていくことの意義をどこかで掛け違ってしまったのでしょう。

嫌われる事は社会的批判を伴う事の代償としてありますが、ちょっと再臨主の嫌われる行き方はイエス様が嫌っていた社会的地位のある実像を追うようなものであると自分は考えます。イエス様は社会的立場のある人を嫌っていました。それは人種問わず貧しい人々や病人や社会的立場にない人が、厳しい立法や上から目線の人間関係によって虐げられていた事実があるからです。そしてイエス様が十字架を背負って亡くなった尊い死をも超えていく死でなければ再臨主としての立場がないでしょうに。

イエス様自身はメシヤとして独り立った訳ではなく、弟子もおりました。文鮮明には弟子はいません、多くの子供がいるだけです。身内でお金の揉め事を起こすような人がメシヤとしての立場には無いという事では無いでしょうか?


救世主としての存在はこの21世紀にもあったのかというキリスト教自体を知らない人からすると、盲信してしまうのかもしれません。事実自分もそうだったと思うからです。


無知であることで騙す事が出来る。無知であるから教義を教える事が出来る。

日本人は真面目ですが宗教的免疫はあまりない人種なので、ある意味そこに漬け込む隙を与えない事が今後の被害を出さない唯一の方法であると思います。



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