詩の迷宮 高田渡

 1969年2月にURCがLP音盤第1号を発売する時期までの高田渡を年譜や関係者の言及で辿って、宿命のようなものを感じる。1949年1月の生まれだから、高田は当時20歳になったばかり。その20年が高田をコミュニストにし、詩人にし、歌手にする運命のようにしか感じられない。そして高田は人生20年のうちの最終5年で決定的にフォークシンガーになった。
 高田が歌い始めた半世紀と少し前はフォークソングという新しい一般名詞が日本語に定着し始めた頃(1966年以降、それまでは(ざっくりアメリカ)民謡といった)、米国での多様な起源・経緯等はほぼ問わず、以降は只管、日本式のフォークソングとして普及し、わずか5〜6年、1970年代の前半で日本式フォークソングは詩の内実が枯渇して、ほぼ死語になる。

 高田は16歳の時、三橋一夫を通じて明治・大正期の演歌と米国民俗音楽 folk music に出逢い、同じ歳、Pシーガに手紙を発信して私淑する。PシーガはWガスリに遡及直系、米国民俗音楽の源流をなしている(遡及とはいってもWガスリは1912年、Aロウマクスは1915年、Pシーガは1919年生まれ、日本式なら大正8年生まれのPシーガからはAロウマクスが4歳上、Wガスリが7歳年上なだけで全員大正生まれ。1940年代から共同作業も多かった。Wガスリだけが大病のため、1950年代半ばで活動停止)。
 Wガスリから更にカーター家、Cアシュリなどアパラチア地方の民俗音楽やデルタブルーズ等の初期商業音源へ高田は多様な起源を探り、起源不詳の口承から音源記録に転換する時代まで伝わった米国民俗音楽の演奏法を身に付け、以降の音楽表現の基盤とした。一方、歌の言葉は日本語の詩表現を探求した。拠り所は明治・大正期の演歌、日本語の現代詩、米国民俗音楽ほかだった。

1969 明治・大正期の演歌

 URCが1969年2月に発売したLP第1音盤で高田は添田唖蝉坊が1900年代初期(明治末期から大正期)に歌った演歌の歌詞をカーター家、Wガスリ、Hウィリア厶ズ、Pシーガ等の米国民俗音楽のメロディに乗せて歌った。あきらめ節(1906年)、現代的だわね(現代節 1915年)、ブラブラ節(1917年頃)、しらみの旅(虱の旅 1923年頃)。
 演歌オリジナルとLP音盤発売時は最長60年の時間差があるので、高田は歌詞内容の一部を調整している。もとより高田は添田歌詞の忠実な再現をめざしたのではなく、あきらめ節では冒頭MCで解説しているように明治、大正、昭和、戦前、戦後と時代が変わっても全く変わっていない日本国民の政治・経済感覚を自嘲している。それを米国民俗音楽の旋律に乗せる事でギャップは更に深まる。
 歌のこの構造を戦略的に活用できる所に、詩(言葉)と音楽(音)で独自の世界を造形する高田の技術の高度がある。演歌歌詞の流用は理屈っぽさを逆用した岡林信康の同時代の歌詞より数十倍の革命効果をもたらす(演歌のオリジナルから百年以上経った今でも)。あきらめ節は1971年6月にURC発売のLP第1音盤で加川良も歌った。

1972 日本語の現代詩

 ベルウッドが1971年6月に発売したLP第3音盤で高田は日本の現代詩人の詩作品を歌詞に使い始める。以降の音盤で歌詞になったのは金子光晴、衣巻省三、山之口貘、木山捷平 、中原中也、吉野弘、有馬敲、谷川俊太郎、高木護、三木卓、永山則夫らの作品。とくに山之口貘の作品を多用した。山之口貘の生活の柄については別記
 高田が付曲した現代詩については近く投稿予定。

1969 米国民俗歌の日本語詩

 高田が歌詞に外国詩を使う場合、EディキンソンやBフォレストなら中島完訳詞、Lヒューズなら木島始訳詞、Mロランサンなら堀口大学訳詞、Jプレヴェールなら小笠原豊樹訳詞等、翻訳者を明示してある(著作権の関係から)。なかでも堀口/ロランサンの詩はモダニスムの日本語創作を歌詞にした例でもあり、(高田自身が訳したのではないが)翻訳歌詞の例でもあり、大正期の詩を歌詞にした例でもあるという、高田の音楽制作でも少し独特な性格を有つ。
 高田自身が英文から翻訳した朝日樓、この世に住む家とてなく、自衛隊に入ろうなどは名訳の域に達しているのだが、経緯等は曲毎に異なっている。朝日樓はWガスリ歌唱版(1940年)を原曲として原詞をほぼ忠実に、寧ろ原詞を上回る忠実さで日本語化している。
 対して、自衛隊に入ろうは名訳なのだが、Mレイノルズの原詞(アンドーラ)は跡形も無く、殆ど翻案に近い。ただ、歌の本意・起点が原詞と同様、寧ろそれ以上に直截に伝わって来る所が高田渡の真骨頂。音盤のクレジットはいずれも高田渡作詞なのだが。
 英語民俗歌謡の翻訳・翻案など高田渡の創作については近く投稿予定。

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