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授業の様子⑩:グローバルスタディーズ学科

 グローバルスタディーズ学科の一年生を中心に、セネガルで10日間ほどの研修がありました。全学に開かれたプログラムとも並列で実施されたため、アニメやマンガの実作者を目指す他学部の学生たちもふくめて10名ほどの参加がありました。アフリカ大陸の西の端につきだしたセネガルは、かつては、北は西サハラ、南はモーリタニアとよばれました。北側の国境には雄大なセネガル川が流れています。河口に面する古都、サン・ルイは、フランスの植民地時代の痕跡を深く残す港町です。400メートルを超える長さのある鉄の橋でつながれた中洲の街並みは、ユネスコの文化遺産に登録されています。9月のはじめでしたが、折からの雨季の最後で、川面は茶色に濁った水が滔々と流れ、晴れ渡った青空から降り注ぐ強烈な光をきらきらと反射させていました。

サン・ルイの街並み:ホテル(左)と郵便局(右)(2022年9月撮影)

 サン・ルイでの宿舎は、文明の象徴でもあった橋のすぐ袂。郵便局のある建物の向かいで、名前もHôtel de la Post(フランス語で「郵便局ホテル」。冒頭の写真は、この郵便局ホテルの皆さんとの歓談の様子。2022年9月撮影)。往年の古風な飛行機の意匠がたくさん飾ってあるので、あれ?と思いました。現地にいってはじめて分かったのですが、ここはフランスの航空郵便展開の最前線で、1920年代に、トウールーズからサン・ルイに至る航路がひらかれ、さらに南下したダカールを中継して、南アメリカのナタールとを結ぶ航空路が開発されていました。大西洋を最短距離で往来できる経路であることは、世界地図をみてもすぐわかります。ナタールからは南下して、当時の首都のリオ・デ・ジャネイロ、さらにパラグアイのアスンシオンからはアンデス山脈を越えて、チリのサンチャゴに至ります。航空路の開発は、もちろん当時は大冒険でした。『星の王子様』で有名なサン・テグジュペリも、サン・ルイまで頻繁に飛行しています。『夜間飛行』という著作もありますが、そのフランス語原本は、市内の市場の書籍売り場にも数冊、古本として転がっていました。航路開発の功績者、ジャン・メルモズを記念して、かれの定宿の部屋219号室は特別保存されており、そこの窓からはセネガル川と鉄の橋とが一望に見下ろせます。ここが、サン・ルイ滞在中の我々のベースキャンプでした。

ホテルの食堂にある、大西洋横断航空郵便航路の説明壁画(2010年制作)(2022年9月撮影)

 現地調査では、まず、漁船が漁からもどる河口の野外の魚市場の盛況を観察しました。卸し売りや仲買のおじさんや青年たちが、大西洋で獲れた大物の獲物を氷詰めにして、馬車で市場へと運び出します。その横には、干物などの加工に携わる女性たちが、色とりどりの原色の衣服に身を包んで待ち構えています。道路を隔てた反対側には、野外に広大な乾燥場が広がっています。強い日光に晒された小魚が強烈な臭気を放っています。そしてその先には、すぐに太平洋の海岸が広がり、大小の貝殻で覆われた砂浜に波が打ち寄せます。学生たちは、習いたての現地のウォロフ語を駆使して、地元の人々との会話に勤しんでいました。

サン・ルイ魚市場の背後の野外乾物加工場にて(2022年9月撮影)

 サン・ルイではまた、地元の本土側の市街地南部に位置するコーラン学校を訪ねたほか、翌日には、「野蛮の舌」と呼ばれる、旧市街の中洲よりさらに西側の広大な砂州の北端に開発中の漁村に新たに建設された、白亜のモスクにも招かれました。コーラン学校では、男女の子どもたちに囲まれながら車座になり、礼拝の時間をふくめて数時間、学校の責任者である「マラブー(コミュニティでクルアーンを最もよく知る人)」から詳しい話を聞きました。奥様たちが、なんどとなく甘くて熱いミント・ティーを振る舞ってくれました。とりわけ女子学生たちは、コーラン学校の女性たちとの交歓を楽しめたようです。次の日の夕刻に訪ねたモスクへの海岸沿いの道のりでは、水辺に色とりどりの漁船が数知れず停泊していて、壮観でした。モスクの近所では子どもたちが一斉に集まってきて、日本人の女子学生たちがモスクにはいるために頭に巻いてもらったヒジャーブの品定め。皆で揃って写真に収まりました。

サン・ルイ郊外 大学付属研究所・植物園と農場の見学(2022年9月撮影)

 ――まだまだ調査はこれからが本番なのですが、まずはこのあたりにて。高校生の皆さんにも、近い将来、ひとりひとりのアフリカ発見が実現することを、祈ります。

2022年11月7日 
稲賀繁美(グローバルスタディーズ学科教員)

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