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超私的・森山大道論(2) ー水底の陽明門
森山大道は、「美しい写真の作り方・5 恐怖の日光・東照宮」(『写真との対話、そして写真から/写真へ」、青弓社会、2006、初出1987年)という文章の中で、東照宮に関するイメージを次のように語る。
陽明門ときたら、まるで忌まわしい病原体がびっしりとはびこっているがごとく、エタイの知れない化け物が無数にぶら下がっているし、おどろおどろしいパターンで、全身疥癬病みのように覆われつくしている。徳川だか葵のご紋だか知らないし、神仏混淆だかなんだか知らないが、霊柩車さながらの金ピカだったり、仏菓子そっくりの極彩色だったり、おまけに死化粧を思わせる白塗りだったりで、ほんとに気味が悪いったらありゃしない。
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過剰な装飾に起因し、東照宮の建造物は一種のグロテスクさを帯びて受け取れることがあることは先述した通りだが、まさにこの文章で森山もそのような受け取り方をしていることがわかる。この中で、病原体→疥癬病→霊柩車→仏前菓子→死化粧というイメージを繋げているところは注目に値する。この連なりは病を受け、苦しみ、死に、そして祀られていくという病死のプロセスをなぞるように配置されているといえる。もっとも東照宮は、徳川家康の霊廟であるのだから、死と祭祀が否応なく境内に充満していることは想像に難くない。しかしながら我々が東照宮や陽明門から受け取る印象は、観光や名所に近いのではないか。森山は本来的に日光東照宮が帯びている霊性、さらにはグロテスクさを帯びる装飾の背景に死と祭祀のイメージが刻印されていることを的確に読み取っているのである。
次いで、文末近く極めて興味深いイメージが語られる。
あんまり恐い怖いと書いていたら、いまは夜中のことでもあるし、本当に怖くなってしまった。雨の音もシトシト聞こえてきて、余計に怖い。しかも、怖いもの見たさというのだろうか、よせばいいのにふと、イメージのなかで東照宮陽明門ごと中禅寺湖の水底深く沈めてみた。 かすかな薄明の奥の仄暗がりに、ぼんやりと陽明門のシルエットが漂い、ゾーッと瞑い風景が浮かぶ――
あー怖い。もうやめることにしよう――。
人間に関わることというのは、人間の心のなかというのは、本当に怖いことばかりだ。
ここでも語句の繋ぎ方が巧妙である。雨の音をまず指摘し、次いで夜、しんと静まった東照宮陽明門に降らせる。暗がりに濡れ光る陽明門、そしてそのまま中禅寺湖に沈める。薄明かりの中で水波に揺れる陽明門は、たちどころに竜宮城として脳内に現れる。
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このイメージ、前回(1)で提示した森山の陽明門そのものではないかと気づいた。死にとり囲まれた聖域の象徴的な建造物は雨によりさらに幻想性を帯び神話化されるのである。この陽明門の写真は、まさにその姿を活写しているのではないだろうか。
参考文献
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