無理するとは

言語は親から学んだもの

元々、言語は親から学ぶものである。
生まれたての頃は、何も考えることができない。
なんの文字も学んでないからだ。
今わたしたちは当たり前のように「言語を通して」物事を考えたりしているはずだ。
「今日の晩御飯にかな〜?」「うわ、この空間気まず…」「こいつおもれえなぁ」
これらは全部文字である。
赤ちゃんの頃は文字の1つも知らないから、何も考えれない。
この頃から、赤ちゃんは親の言ったことを聞いて、見て、言語を学んでいくのだ。
では、「嬉しい」「悲しい」などはどうだろうか。
こういう感情は、どうやって赤ちゃんは学ぶのだろうか。
それは、おそらくその場の雰囲気、「親の顔」などであろう。
そう、こういう感情は、「親に依存する」のである。
だから、他の人が嬉しいと思っていても、その程度では嬉しく思わない人もいるのだ。

無理するとは?


そう。では、「無理する」とはなんだろう。
ごはんで考えてみよう。
ある高校生のAさんはたくさん食べる子で、おかわりが口癖の人であり、同じ高校生のBさんは少食で1食完食できたら明日雪が降ると言われるような人だとしよう。
Aさんにとっての無理するは、10回おかわりすることかもしれない
だが、Bさんにとっての無理するは、1食を完食することだろう。
これを、Aさんみたいな人がBさんを見たらどうだろう。
「なんや、Bさんこんなとこでやめるのか。もったいねぇなぁ」と思うだろう。
まぁ、何が言いたいかというと、もったいないから全部食べろとか、食べ物を粗末にするなとか言っては絶対にいけないことなんだよということである。
実際に自分は、こういうことを何回も何回も言われてきた。
とくに、小学生の時。
給食だから、バイキングみたいに調節できないから、少なくできない。
なのに、残したら全部食べろと言われる始末。
特に酷いのは、「完食カード」である。
別に一人ひとりで配られるのなら問題ない。
個人な問題なんだから。
だが、自分の学校では「グループで」配られたのだ。
そう、そのグループ仲間から食べろと言われるのだ。 
地獄だろ。

(感情的になったので、冷静になろう)

そう、まとめると、主観的な言葉は絶対に否定してはいけないのだ。
嬉しい、悲しい、面白い、お腹いっぱい、苦しい…
これらは全て、自分のさじ加減である。
他人からは「絶対に」分かることはできない。
(カウンセラーなどそういうのを除いて)
なので、まずそういう主観的なものに干渉したいのであれば、「共感」することだ。

………論点がズレてしまったな。

まぁ、そういうことなので、主観的な言葉には気をつけよう!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?