見出し画像

一枚の自分史:霊峰富士もかくありしかと・・・

1994年44歳の夏、御来光をたっぷりと浴びて私たち家族は富士山の山頂手前、ほぼゴール地点にいた。
他にも写真はあるのだけれど、当時、霊峰富士もかくありしかと唸ってしまう。敢えて、これを使おうと思ったのにはわけがある。

富士山は2013年に世界文化遺産に登録された。 富士講に代表される信仰と、浮世絵を始めとする様々な芸術を育んだ富士山ということで、自然遺産ではなく文化遺産としてなのである。
自然遺産としての候補からは落選していたのである。富士山の開発が進んでいること。ゴミや屎尿(しにょう)などを原因とする深刻な環境の悪化が原因だった。

松本サリン事件があったのもこの年である。明くる年には阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件と次々と不穏な出来事が起きる前年であった。
そんなことは全くこの山頂で御来光を仰ぎ見る群衆と化した私たちにはわかる由もなかった。

一生に一度は登りたいのが富士山。 町の 雑踏が そのまま移動してきたような賑わいだった。
夜行登山の列は8合目から山頂まで続いているようだった。渋滞に巻き込まれて、何十分も同じところで足止めをくらった。疲れていることもあり、つい立ったままうとうとしてしまう。河口湖では花火大会が催されていて、ドンという音で目が覚めた。空に仰ぐ花火ではなく、却下に見る花火と言う面白い体験をした。

日本一高いところで迎える御来光はそれは素晴らしく感動もした。
だが、この頃の富士山は、悪名高いすし詰めの山小屋と不潔なトイレ、ゴミだらけの山だった。

富士山には一度は登りたい。けれど一度でいい。
夏の富士山は登る山ではない、見る山だと、それからは思うようになった。

日々仕事に追われていた。そんな中で、夏休みはとにかくどこかに連れて行って、キラキラとした思い出を作ってやりたい。
夫は休みには動きたくない。そのために私一人だけが必死に「家族ゲーム」をしているようだった。
高校3年生の息子が一番気の毒だった。予備校の夏期講習の休みはわずかにこの3日間だけだった。その3日に無理やり連れ出した。しかも登山にだ。それでも付き合ってくれた。奴の体力は疲れ知らずで呆れるぐらいしぶとかった。いや、相当にありがたい話である。
娘だけは無邪気にはしゃいでいてくれているのが救いだった。

一度、登ったからもういいと思っていた富士山に62歳でまた登ることになった。72歳の中学の恩師をサポートすることになったのだ。あの時は天候が悪く8合目の小屋で断念してそこで泊まり、御来光を仰いで下山をした。
山にあって、これまでも数々途中で引き返すことはあることだった。

その時の富士山は、世界遺産に登録される前年とあって、山小屋が至るところで建設中だったこと。信仰の山は形無しにされて、内外からの観光客に荒らされていると感じた。

もう登るつもりはないが、今なら人のサポートどころではない。自分がサポートをしてもらっても登れるかどうか自信はない。

ただ、富士山を仰ぎ見る場所には何度でも行きたいと思う。

山頂に立つことだけが登山ではない。
人生と同じで、ゴールは頂上でなくてもいい。
それぞれでいいのではないかとごく自然に思えるようにもなった。

この夏、思いもかけぬ災厄にあって再確認したことである。

今年の富士山は数日前に冠雪した。
ようやく自然に還っていることだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?