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【連載】永遠のハルマヘラ ~生きて還ってくれてありがとう~ 第九章    満蒙開拓平和記念館を訪ねて


父さん
長野県の阿智村というところにある一〇一九年に開館した満蒙開拓平和記念館に行ってきました。そこには十六歳から十九歳の頃の父さんの確かな足跡がありました。

 満蒙開拓平和記念館というところがあるというのはどこかで聞いたことがあるのですが、聞いたときは行ってみたいなとなんとなくは思いながら、タイミングではなかったのでしょうか、この物語を書こうと決めていながらも思い至らず、いい加減なものです。無駄に時を過ごしていました。
 いよいよ行くと決めてからは、猛烈な勢いで新型コロナの感染が蔓延していきました。やがて、緊急事態宣言が発出されて、延期に継ぐ延期の中、ほんの少しの狭間にチャンスを狙って六月二十四日決行しました。

 父さん
いよいよ、大阪船場島之内の丁稚時代からいきなりの満州時代。そこから陸軍兵器学校へと続く謎の十六歳から十九歳時代のことが繋がりました。なんとなく聞いていた話を裏付ける記録が見付かったよ! しかも、手元にあったその写真がいつどこで写されたものであるかもわかったのです。まさに一枚の自分史でした。満蒙青少年義勇隊での日々の一コマ。モリというシェパード犬が生んだ子犬を膝に乗せた十八歳の父さんを見付けましたよ!

 誰かの記憶に残っていた父のこと。そして、残してくださった記録で、あの歴史の狭間でもがく一人の青年の姿が蘇りました。まさにそこにあった真実と繋がりました。
 全身に泡立つような感動がありました。 

訪問前日

 姉は新大阪から、弟は京都から新幹線で名古屋に。そこから中央線を特急信濃で中津川に、そこからはレンタカー。コロナ自粛の繰り返しの日々、久しぶりの旅はいやでもテンションは上っていました。
 その日の宿泊地は日本一を誇る星空が売りの長野県那賀郡阿智村の昼神温泉。ただ、この一週間は長野地方は数日、雨が続くとの予報で、雨を覚悟の信州への旅だったのです。
 
 午後一番で中津川に到着。山欠症状の出ている姉のお願いで、コロナ下でハイカーの消えたいつもとは違った静かな馬込宿を歩くことに。いつ雨が降り出すか心もとなくて先を急いだのですが、なんと雲が切れて青空が見えてきます。
「晴女の面目躍如やね・・・」
とおしゃべりするうちに、全容が雲に隠れていた恵那山も姿を現しました。
これまで、二度もチャレンジして、登らせてくれなかった恵那山。今となってはもう登りたいなんて思えないしんどい山です。
 馬籠宿には何度も訪れているけれど、人がいなくてお店もしまっていてなんとも寂しい。

 前を歩く弟の少し蟹股で歩く後ろ姿がなにやら父に似ている・・・。

 夜、露天風呂に浸かっていると、雷鳴が轟き 、堰を切ったように豪雨となり、宿の前の大きな沢は一晩中轟轟と唸り続け、なかなか眠らせてくれませんでした。星空は、マタイツカ・・・。

訪問に至る前に・・・

朝から、どんどん雲が上がっていく。いよいよ満蒙開拓団平和記念館を訪ねる。ここに至るまでにはちょっとした記念館とのやりとりがありました。
私の方からは、このような問い合わせをしていました。
  
  お世話になります。
  私は大阪の堺市より六月二十四日にお伺いする予定でおります。
  大正十一年生まれの父は、生きておりましたら一〇〇歳です。
  父のものがたり(自分史)を書いて、孫やひ孫たちに残したくいろい
  ろと調べております。満州時代の資料がなくて、写真(現地訓練所や
渡満前訓練のものなど)が数枚あるだけです。
   一九三八年四月 満州開拓青年義勇隊勃利訓練所赤堀中隊に入隊。
   一九四〇年十二月 陸軍兵器学校を受験して合格し、帰国し入学。
  弟も伴います。
  弟は実際に数年前に父の足跡を尋ねて満州にも行っております。
  展示を見せていただくのも楽しみにしております。
  また、その当時を忍ぶお話など、聞かせていただけたり
  ガイドいただけたら有難く、メッセージさせていただきました。
  よろしくご検討くださいませ。

そのお返事は
   お問い合わせありがとうございます。
  赤堀中隊は香川県から送出された義勇軍ですね。
  香川県の資料は少ないのですが、当日までに勃利訓練所の資料など探
  してみます。
   ご来館をお待ちしております。

そして、私からは
   ご返信ありがとうございます。
  赤堀中隊は香川県出身の方が中心なのですね。
  実はわたくしの父は福井県勝山市の出身で、本籍もそこにありました。
  なぜ、赤星中隊と思ったかですが、父親からは誰も聴いておりません。
   アルバムにあった写真を添付しました。

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   弟とこれらの写真からそうだと思った次第です。
  申し訳ありません。
  福井県勝山市出身者の資料も見せていただけたらと存じます。
  よろしくお願いいたします。
   二十四日の朝、お伺いいたします。ドキドキいたします。
  よろしくお願いいたします 

その返信です。
   大変失礼いたしました。
  藤原さんからの返信メールで再度調べましたら、同じ年に福井から送
  出された同じ「赤堀中隊」が存在することが分かりました。
  『福井県満洲開拓史』という本があり、福井県の開拓団や義勇軍のこ
  とが詳しく載っています。
   また、福井の「赤堀中隊」に大陸の花嫁として嫁いだ経験のある人
  の自伝もあります。二十四日にご覧いただきたいと思います。
  どうぞお気をつけてお越しください。
                    満蒙開拓平和記念館 三沢 

謎の満洲時代が繋がる

 記念館には多くの資料が丁寧に展示されています。
まだあどけない表情の少年たちの笑顔が眩しくてなおさら切なくなります。多くの資料やいろいろな立ち位置から書かれた手記から、当時のこと、時代を占めた奔流に少年たちが飲み込まれていく姿が想像できました。

 父の物語「永遠のハルマヘラ~還ってきてくれてありがとう」の執筆は中断したままでした。謎のままだった十六〜十九歳の満洲時代がやっと繋がりました。
 満蒙開拓がどういうものだったのか?何故、義勇隊にはいったのか?
あの時代のことを理解せずには分からないことばかりでした。

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福井県満蒙開拓史から足跡を辿る

記念館で待っていてくれていたのは、昭和五十六年八月に福井県満州開拓引揚者連合会が発行した「福井県満州開拓史」でした。
興亜義勇隊開拓団「第一次興亜義勇隊開拓団の経路」p378~385三田村武さんや「在満中の思い出」p390~394笈田義男さんの手記と添付された写真からするするとその足取りが明らかになりました。これらの記述は父の足取りでもありました。

昭和13年1月、満蒙開拓青少年義勇軍(十五~十九歳)十六歳にて応募
昭和13年2月26日、福井に集結
昭和13年2月27日、内原訓練所到着・第二大隊第九中隊・第三小隊配属(福井県から約百名の訓練生が入所と推定)集合写真あり
昭和13年3月10日、十七歳となる
昭和13年4月19日、清津入港
昭和13年4月22日、勃利訓練所着・夕食は粟飯に昆布汁・小銃と実弾を渡される。宿舎は後に新宿舎に移るまでは藁ぶきに直に寝る。天地根元造り。宿舎の建築・道路工事・匪賊の襲撃に交戦、警護。幹部襲撃事件
昭和13年11月20日、事故で初めての同期の犠牲者が永眠
昭和14年1月24日、匪賊のスパイ容疑で逮捕された青年が斬首される。その折のことがどうか、父は弟に話していた。その夜、斬首された女(女になっている)スパイの幽霊騒ぎがあったと・・・。
昭和14年1月25日、内地からの激励袋が届く
昭和14年3月10日、十八歳となる
昭和14年7月6日、土城子の小訓練所に全員移動・清らかな川の流れなど内地とよく似       た風景で気持ちはよいが、やせ地だった。紫陽訓練所と改称。
昭和14年8月27日  赤堀所長の子どもの正ちゃんがアメーバ赤痢で死亡。赤痢には約半数が、苦しめられる。
昭和14年12月23日、国境に近く軍事訓練は厳しく、幹部排斥運動が起こる。
昭和15年1月1日、元旦のおかずは、朝が味噌汁、昼タクワン四切れ、夜小さい魚の切り身一切れだけ
昭和15年1月11日、セパード犬「モリ」が子ども六匹産む。子犬を膝に乗せた集合写真が掲載されている。家のアルバムにも残されていた。
昭和15年3月10日、十九歳となる 
昭和15年3月11日、幹部排斥行動を起こし、他部隊の干渉を受ける。七月に後任所長の温厚な人柄ので依頼は無事な日が続く。
昭和15年10月13日、訓練所から徴兵の入営者を送る。哈爾浜にて陸軍兵器学校を受験して合格する。兵器学校入校のために、訓練所を去り内地に戻る。
昭和15年12月9日、陸軍兵器学校入校

昭和16年4月17日、龍江省甘南県興亜開拓団に入植に向けて出発。香川開拓団には合流せず、福井県開拓団として独自の道を苦しみながら達成する。

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三田村さんの回想には

今にして振り返って、紫陽の訓練期間の人脈の移り変わりを考えてみますと、最も残念に思い出されて来ますのは、同じ目的で終生同じ開拓団で、よい農民になる事を誓い合って、勃利のきびしい一年を共に過ごして小訓練所迄行動を共にし、次に最終目的の開拓団移行を習年に控えた時点まで来て居乍ら、あの当時の紫陽訓練所内の環境と、其の環境と、そのままの形で開拓団への移行に対する将来の不安から、訓練所を去って行かれた人々の事である。
 満鉄訓練所であるが故に、満鉄本社からの社員募集が続き、其れに応じて、訓練所を去って行かれた人々や、其の他特殊教育を受ける為に出て行かれた人もあり、(中略)現在興亜に入植した同期生の数は六〇名となっています。

 特殊教育を受ける為に出て行った父のことを語っておられます。

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何故、開拓団を出たのか

 では、ここで何故、父は最終目的の開拓団移行を控えた時点まで厳しい中を共にした仲間の元を離れたのでしょうか。どうやら、最初から開拓団で農民になるつもりはなかったのではないでしょうか。
 弟が父から聞いていたのは、そのすべてが本心かどうかはわからないのですが、このように言っていたようです。
 軍隊の理不尽を目の当たりにする日々。このまま兵役に着いても殴り倒され、弾除けにされるだけ、それはごめんだと思った。軍は学歴社会、ならば、官費で入れる陸軍兵器学校に入ろう。
 そして、三田村さんのいう「特殊教育を受ける為に出て行かれた」となったらしいのです。
 兵器学校のことは、私もよく聞いていました。誰でも志願したら入校できるようなレベルだと思っていましたが、この物語を書くにあたって調べていくと、四〇倍の倍率の難関大学を中卒で受けるようなものであったと知ります。訓練所のスケジュールは厳しい訓練と開拓で埋まっているその中でどうやって勉強をしたのか?テキストはあったのか?中卒で受けるには大検のようなものがあったらしいが、それはどうしたのだろうと疑問だらけになってしまいます。

 苦労して入校した兵器学校は二年後の十七年十一月、三年間のところ繰り上げ卒業となり、五日後には下関を出帆。再び満州、孫呉野戦兵器廠に向かっていました。

 ここまで書いてですが、
 父さん
 やはり、最初から満州で農民になるつもりがなかったのではないですか?
本当は大陸に出るための足掛かりにしようと思っていたのではないですか?
義勇隊に入る前に故郷の写真館で撮った写真に添えられていた言葉
あれはどういう意味やったの?

「実業家ヲ志ス頃ノ小生17才(数え年)」とは?
もう聞けないよね・・・。 

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知ることの大切さ

 二度目の満州時代の話は断片的に聞かされていました。その頃、反戦運動や学生運動のさ中にあった私は、戦争をした世代に対して軋轢を感じていました。話の中での矛盾に嫌でも反応してしまう。親の世代を否定することは自己否定にも繋がりました。それが嫌で、戦争の話を忌避するようになってしまいました。
 そんな中で義勇隊の話も軍隊時代の話も私の中では混同していました。
若気の至りとはいえ、父に対しては大変申し訳ないことをしたように思っています。もっと聞いておけば理解できたことがあったように思います。全く想像力がなかったと思うし、想像するためには、満州というところがどんなところか、そこで何が起こったかを知る必要がありました。
なにものかによって隠された真実がある。知ることの大切さに思い至ることになりました。 

子犬を抱いた十八歳の父に出会う

 記念館にあった大切な記録の中には六匹の仔犬の親犬も写っていました。そのシェパード犬の名はモリということが「福井県満州開拓史」の記述にあります。
そして第三小隊の集合写真の中には父の姿が確かにありました。十八歳の父は子犬を抱いていました。この写真は、父のアルバムの中で眠ったままでいました。見付けたときの私たち姉弟の感動は記念館の天井を突き抜けるくらいのものがありました。

 生きていたら百歳の人が十八歳の頃のことです。
 満蒙という遠い幻のような地のお話なのですが、記録を残してくださった方がいたからこうして繋がりました。
 移民政策の悲惨で暗い過去の狭間の日常のなかで、そんな一コマの写真から優しい風が吹いていました。

望郷の鐘・長岳寺

「望郷の鐘」のある長岳寺にもよりました。武田信玄を火葬した寺ともいわれています。このお寺の先代、故山本慈昭住職は中国残留孤児の帰国支援事業を国に先駆けて推進された方です。
 現在のご住職のお話も聞きましたが、少年たちの意志とは別に、義勇隊に参加しないことで不利な立場に追い込まれたり、教育機関みずからもそのことに手を貸したという事実を問わず語られます。そしてそのことを今も認めていないことを糾弾なさっている姿が印象的でした。

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 平和記念館にも、それに触れる資料や展示があります。今日まで続く満蒙開拓の歴史、戦争が人々の人生に残した傷跡を多くの人に見詰めてもらいたい。先ずは知っていただきたいと思うのです。

長野県から最も多くの開拓民が送り込まれました。そして福井県からも多くの開拓移民が送り込まれました。貧しい山村の大家族の三男にはそうするしかなかったという史実の中に事実がありました。
 何故、義勇軍に志願したのか。開拓民を守り、北辺を守ることを志願したのか?農民にとって土地というものがどういうものであったか今の私たちには計り知れないものなのでしょう。
 記念館にある記録、土地の人の証言から垣間見える史実の中に埋もれた事実を青少年義勇隊の記録からしっかりと受け取ることができました。 

次の世代への継承

 帰阪する新幹線の車中で記念館の三沢さんからメールが届きました。
そこにあった言葉に心が詰まりました。
  記録と記録、記憶がつながってだんだんと実相が見えてきます。
  戦争をした前の世代との確執や葛藤を超えて
  団塊の世代が平和を希求したエネルギーを
  これからは次の世代への継承につなげてください。

 平和という言葉の貴さを想うと涙が出ました。記念館に残された古びた写真にはまだあどけない顔をした少年たちが笑っていました。
見たことのない満洲の曠原に沈む夕陽が胸に迫って、泣けてしかたありませんでした。

 いつでも、必要な人が必要な時に受け取ってもらえるように。書いて繋ぎたいと思います。
 そして、いつか孫を連れて行こうと思います。ひいじいちゃんやあの時代の人たちからもらった命を想いを受け取ってもらうために。
「繋ぐこと」それが私たちシニアの役目だと思います。

 記念館の方たちには、大切な記憶を、記録を守ってくださっていることに、心より感謝しかありません。

 父さん
 次ですが、十四歳から十七歳までの、大阪船場島之内の丁稚時代を掘り下げたいと思っています。何故義勇軍に志願したのか?そして、そこから兵器学校へと繋がって、命と対峙したハルマヘラへと繋がっていく。
 父さんは結局、何をしたかったの?それを知るためにも、丁稚時代が気になります。船場にある繊維会館とかに行けば分かるのでしょうか。奉公したお店を探し当てられたら、その頃の徒弟制度のことを知りたいと思います。大阪商人の歴史の中にそれらも埋もれているのではないかなと思っているのですが・・・。

たかだゆうこ
キャリアカウンセラー・自分史活用アドバイザー・マンダラエンディングノート養成講師


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