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【連載】永遠のハルマヘラ~生きて還ってくれてありがとう~第一章 命のバトン


時代の波に流されないうちに

父が亡くなったのは
平成元年の3月

来年は33回忌です。

お葬式は4月1日
消費税導入の日でした。

葬儀社さんに「消費税かかりますよね」とお聞きすると
「3月の契約なのでかかりませんよ」とのことでした。

悲しみの中でも
冷静な私がいました。

そして今
令和元年10月1日

消費税は10%となりました。

ついつい
あの当時を思い出しています。


今、私は
父さんの未知のゾーン令和にいます。
令和がどんな時代になるのかこの目で見てからいきます。

そして
父さんのやりたかったことやるからね・・・。

そのひとつが
あの戦争から帰って
マラリアの後遺症を抱えながら
生き切ってくれた生きた父の物語

生きた家族の歴史

孫たちへの命のバトン
家族の物語を残しておくことです。


そろそろ始めようと思います。

まずは軍歴証明をあげること。

あげようと思いながらできていない。
できないわけではないのに
何かに阻まれています。
どういう抵抗が働いているのだろう・・・

そろそろやらねば
時代の波が大きく流してしまわないうちに!
10月のタスクにもいれておきましょう。


父の最期は

平成の元年3月28日に父は亡くなりました。
68歳でした。
私は父の生きた時間を超えてしまいました。

父は60歳を目前にして、職場で心筋梗塞で倒れ
一命は取り留めても心臓の半分は壊死した状態。

その後、今度発作を起したら命の保証はないと言われて
数回発作を起し、入退院を繰り返しながらも
その後8年生き長らえました。

永年、営んだ会社を不本意だったろうが
どこにも迷惑を掛けない形で自主廃業。

それが亡くなる前年の8月。

2月に申告を終わらせてすべて完了。
それを待って、旅立っていきました。

その8年は、それまでの商売一辺倒から
趣味や地域の奉仕にと
十分に楽しんで生きたようでした。

自主廃業と共に財産を失い、家も失った。

残ったのは障害年金と軍人恩給。

幸いにも、その額は、高齢者夫婦が
新築の市営のマンションに住み
家賃を払っても十分に余裕のあるものだったのです。

趣味の教室を開いて生徒を集め
謡い、三味線、太鼓や鼓を叩いていました。

弟子の中には新進落語家がお囃子を習いに来ていたり
賑やか!

住居の新しい市営のマンションでは
障害者ということで1階の管理人室が当り
手当てもいただいていました。

毎日、若い奥さんたちがやってきて
新自治会の発足のための会議を開き、規約をつくり
それをワープロで打ちたいからと
パソコンも習いに行っていたのです。

初代の自治会長の予定でした。

充実した68歳だったと思います。

それぐらい楽しくやっていたら
免疫力も高まる。

医師からは、その症状の回復の程度により
「障害年金が不支給になるから診断書には重い目に
書いておきましょう」とまで言われたそうです。

その矢先でした。

自宅に帰ってくる途上、ほんの100m手前で
あっけなく逝ってしまいました。

人生ってわからない。 

母の孤独でつらい最後を看取った時からは
父はいい死に方をしたのかもしれないと
思うようになったけれど…

その当時は
いきなり逝ってしまったことを恨んだものです。

お彼岸に
奈良のお墓にお参りしてきました。

お彼岸の花が、次々と供えられて
花生けからはみ出していました。

お父さんはどうだったんだろう?
どう生きたかったんだろう…
その後はどうなりたかったんだろう…

千の風になって / 千の風になって
あの大きな空を / 吹きわたっていきます

今、書かねばと強く思います。

昨年の12月
悲しい訪問でした。

2月の福井の豪雪で88歳の叔母が命を落としました。

生者必滅、会者定離
この世に生を受けたものは必ず死に
出会ったものには必ず別れがくる。
去って行った人の心を引き継ぎ
次代に引き継いでいくことが大事。

雪が着く前に
3ヶ月も早くに一周忌の法事が営なまわれました。

私は、商売人の家で繁忙の中で育ちました。
あの頃はみんながそんなものでした。

夏休みになると
福井の母の実家に私たち三人は預けられました。
長女の私は子どもながらにも気を使うことが多くて
本当は家にいたいと思っても
それは言えませんでした。

叔父も叔母も優しい人たちだったことが救いでした。
おばちゃんは二人目の優しい母のような存在で
おばちゃんにとっても
「うちの娘なんにゃ〜」と・・・

おばちゃんは、私たちのファミリーヒストリーを語れる
最後の証人でした。

間に合いませんでした…。

ファミリーヒストリーは書けなくなりました。
ファミリーストーリー(お話し)しか書けません。
それでよしとするしかありません。

誰かが聞いていたことを書き綴っておこう。
それが事実かどうかは分からなくても・・・
記憶をたどるとき
その現場に立ってみる
そして、本人の感情に浸ってみる。

今は、そのことだけが
書くモチベーションになっています。

その意味では
今回は大切なチャンスでした。

自身のルーツ
一族からの言い伝えや
親たちから聞いていた祖先の話
そして戸籍謄本が教えてくれる大切なこと・・・。

今、たどらないとどんどんリセットされてしまう。
何も、次世代には伝わらない・・・。
それでいいのだろうか・・・と深く考えました。

父が戦争で悲惨な状況から生還してくれたからこそ
私がこうして生まれ
娘が生まれて
孫っ子は小学二年生

孫っ子に
大切な人たちを自らの死をもって守ろうとした人がいたから
そして、生き残ってくれた人がいたから
あなたは生まれることができた・・・

そのことを伝えないと・・・。

ファミリーストーリー
伝えることができる人が伝えなければ・・・。

だから、父の生家があるうちに
行ってこなければと思っていました。

そうして
目にしたものは・・・

行き過ぎても分からないはずでした。

ユンボがまだそこにはありました。
ユンボの爪痕はまだ真新しい。

なんてことでしょう。
わずかに遅かったのです・・・

また、間に合いませんでした。

そこにはぽつんとお墓が遺されていました。

涙が溢れました。

誰かが私に乗り移って泣いている。
そんな感覚でした。

供えられた花が枯れる寸前で風に揺れていました。

遅かったけれど
それでも、あの場に行けてよかった。
懐かしい人たちの面影が
そこにはありました。

これはおばちゃんがくれたんやね・・・。
おばちゃんのおかげです。
ありがとうね。おばちゃん。

いつも働いてばかりだったけれど
もう、ゆっくりしていますよね。

過疎の郷・・・
逝きし世の面影
日本のいたるところで起きている風景です。

間に合わなかったことばかり・・・

だから
今、書かねばと強く思います。

書いて、そこに置いておく。
必要なときに
必要な人が受け取ってもらえるように。

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