神の友人
「よく来たね」
花園。明日また切り刻まれる。その日も男の子は相変わらずふわふわとして、真っ直ぐで、優しかった。
「なにか悲しいことでもあった?」
すっかり散ってしまった桜の木の下、膝を抱えて二人で座った。私は何も言わない。機嫌の悪そうな空。雨でも降るかもしれない。
憂鬱だった。私は死なない。だからどれだけ切り刻まれようと、そのうち傷は塞がり痛みも忘れる。他の子がそうじゃないと気がついたのは、ある時町外れの急な階段から女の子が転げ落ちたのを見た時だった。
あのこが背中を押したの。
私はただ、何人かの友達と一緒に歩いていただけだった。喋るのに夢中になっていた彼女は、足をもたつかせころころと、噛んだティッシュが風に飛ばされるようにして転がり落ちて、そのまま動かなくなった。
手当てをしようと急いで駆け寄って話しかけたら、周りにいた女の子たちは絹を割くみたいな悲鳴をあげると、顔を真っ青に染めてわたしと気絶した子を残して、走り去った。
赤い血が垂れ流されるがままにじわじわと水溜りになって、広がっていた。
そのあとからだ。私には監視の目がつけられるようになって、街の女の子たちからも後ろ指を刺されるようになっていったのは。申し訳なさそうに隣のおばさんが教えてくれた。「人は死ぬのよ」
ああ、私は、ひとではないのか。
その時になって初めて知った。三年前のことだった。
「君は月に支配されてる」
さあっ。風が吹き抜けた。ここちいい指先が耳をなぜて、現実に引き戻された。いけないいけない、そうだ、いまは男の子に会いに来ているっていうのに。
「えっ。っと。なんて?月?」
「そう、月。」
月。
「月に支配されてるって、どういうこと?」
「おや、町の人間たちはそんなことも君に教えてくれないのかい?ずいぶん意地悪な場所に君もい続けるものだね」
物好きだ。
いつも優しく綻ばせる口を意地悪そうに歪めて、そんなことを言う。
「そっ、そんなことを言うあなたの方がよっぽど意地悪じゃない!私はあそこから出られないって決まってるの。生まれた時からそうなのよ。なによ、や、優しくてすてきな男の子だと思ってたのに。勘違いだったみたい。」
顔を逸らしてしかし高鳴る鼓動を誤魔化しながら、息を整える。なんだろう、この、気持ち。
「誰がそう決めたの」
ちらりと盗み見た先で顔から表情が消えた。ゾッとした。
「っふ。ふふ、はは。ちょっとからかっただけなんだ。怒った顔が見てみたくて。ごめんね、あんまり君がかわいいから。ゆるしてくれるかい」
「・・・・・・・」声にもならなかった。
なんでかわからない。さっきの間が気になったのかしら。いや。そうじゃないわきっと。だって、かわいい、だなんていうから。こんな、私のこと。
たどたどしく目線を合わせると、またいつもの笑顔がそこにあった。
「ほら、やっぱりかわいい」
この時点で戻っておくべきだった。
「ごめんのついでに、教えてあげようか。」
「満月が頭のてっぺんに来る時。それはね、わざと派手に身を曝け出して自分の弱点を覆い隠そうとしているのさ。」
「自分の支配が弱くなるのを恐れて、みてくれで誤魔化そうとするんだよ」
大胆で狡猾なくせ、小心者なんだと、彼は言った。私は俯いたまま返す。
「私、満月なんて見たことない」
「そう?今日見れるよ。それに月蝕が起こるんだ。ここで一緒に見たらいい」
「そんなこと」「できるわけない、って?」
顔を上げたとき、至近距離で目があった。いつの間にこんなに近くに来ていたんだろう。驚いた鶏みたいに心臓がはね、吐息が顔にかかる。鼻がくっつきそうなくらい、顔が近くにある。
「できるわけ」
ないよ。蓋をされた。いいかけたら、遮るみたいに。唇に何か柔らかいものが当てられていた。何かは、よく、わからなかった。
「僕はね、魔法使いなんだ。本当は君だっておんなじようなものなのに、愚かな人間に捕まえられて羽をもがれてしまっている。」
またあの目だ。真っ直ぐに射抜いてくる宝石の光。彼が何を言ってるのかすら、もういまいち頭に入ってこない。魔法。魔法にかかったのかもしれない。何も言えないままどぎまぎしていると、
「ごらんよ、君の体その傷を。めちゃくちゃじゃないか。」
するりと伸びてきた手が優しくスカートの裾を捲し上げた。もう、顔面でなにかが爆発したかってくらい熱くなって、頭の中がチカチカして、何か言おうとしたのにいっそう声が引いて行った。するり、太ももを何かが這う。凶器じゃない、やさしい手つき。
どうしよう、どうしよう。どうしよう・・・
町に伝わる伝記によると、ドラゴンは口から火を吐くらしい。でも私はもうっそこのとき、顔から火が吹けそうなくらい熱くなっていた。
どう逃げよう、顔だけでも隠したいと思うのに、木の幹にぬいつけられるみたいに膝を間に挟まれてしまってはどうすることもできない。目の前には柔らかな唇。
うろたえている様子を見て、男の子はまたいたずらそうに笑った。この人は一体、わたしをどうしたいっていうの。
それすら見透かす。彼は魔法使い、なの、だろうか。ほんとうに?
「どうする?君がここから出ない限り、僕は君を守ってあげられるよ」
『日が暮れる前に帰ってくること』
『祭壇の外で月を見てはいけないこと』
『男と交わってはいけないこと』
私は禁忌を犯した。ここはやはり、天に一番近い場所だったのだ。彼は川の流れ。この花園と天をつなぐミルキーウェイ。私は導かれるがままに、この楽園の、銀河のその先へ。
その日私は地球の影に隠れて夜空を見た。いつだっただろう刃物を突き立てられ閉じられたそこをゆっくりと開いて、彼は自分の体の大切な一部を差し込んだ。
彼の瞳の中で、月を見た。するとたちまち、耳に魔法をかけられた。
彼の声がすべて美しい旋律に聞こえる魔法。
耳に触れた指先が私の力を奪う魔法。
彼の瞳の中には星空がたくさん散りばめられていて、覗くたびチカチカと煌めいては、その中に私の姿を写してみせる。
「これが君の本当の姿だよ」
満点の星空の中にいる私は、綺麗だった。
「すこしでかけてくるよ。ここから出ずに、いい子で待っておいで。何かあったら声を出して僕を呼ぶんだよ。」
それを知ってから、どれくらいたったろう。幾度なく夜を越えたある日のことだった。
しばらくひたすらじゃれあって過ごしていた。夜も朝もずっと一緒にいた。不思議なことに街の人たちがここへくることは一度もなかった。
本当に呪いが解けたのかもしれない。彼が魔法で仕立てた服を纏い、朝は小鳥の囀りと共に歌う。昼は花や木草たちと話をして、夜には瞳の銀河に抱かれた。
涙が目だけから出る訳じゃないってことを知った。悲しくて涙が出るだけじゃないってことも、さみしいときにも出るってことも、全部彼が教えてくれた。この地球もまた、美しいの銀河の中の一つなのだと。
そして今日みたいに、時折彼はなにか用事があると言ってとある夜の間留守にする。今日もまたその日なんだ。わかったと言ってキスを交わした。
彼がいない間は、暇だ。何もすることがない。
そればかりか、いまだに私は彼の名前すら知らずにいた。はた。何かあったらだなんて、ここへきてから何かがあったことなんてないけれど。
知りたかった。なんて名前なのかしら。
そうね、矢を刺すクピードー?いいえ、天使の名前が似合うに違いないわ。そうね、
ラジエル。この世界の全てを密やかなカーテンのうちで静かに見聞きする全知の天使。他の天使たちすら知らない秘密をも知る、神秘の天使。
ラジエル。妙に馴染んだ。ラジエル、そうよ。きっと彼はラジエル。全てを知る書を書いた人。だからなんでも知っている。そうに違いないわ!
この世には人間でないものがいるならば、天使だってきっといる。そして彼は天使なのだ、きっと。きっと。
ああ、わたしもなにか彼に恩返しがしたい。何ができるかしら。
それが地獄の始まりだった。
楽園に至るまでの途中、細い小道から外れたところ、ボロボロになって土に還ろうとしている布っ切れが打ち捨てられているのがみえた。
「ああこれ、私が少し前まで来ていたやつ。どうしてこんなところに。」
あ、そういえば、牢には私がこっそりと集めていた可愛い石があったわ。この花園を見つける前は、街からみて反対側の湖によく遊びに行っていた。そこで見つけた、綺麗な小石があったはず。
彼は出かけたその夜は帰ってこない。こっそりと抜け出して街へ向かう。わくわくした。喜ばせたい一心で、私は小道を駆け降りた。
果たして村は跡形もなかった。
ぼつん、と歪な形の祭壇だけが形を崩して残っている。建て直した、と言った方がいいのか、とにかく歪だった。
「なに・。これ」
生き残りの村人のおばさんが目をきっと目と肩を吊り上げて、吠える。
「どこへ行ってたんだい!」
『約束を破ったな嘘つき』
声が聞こえた気がした。その後ろに吊り上がり笑う口角。今日は『三日月が真上に来る日』だったのだ。
「・・。っ、・!・・・!っ!」
声が出なくなっていた。あの日はただ、あの男の子と一緒に流れ星が見たかったの、ごめんなさい。そう言うつもりだった。
「この人殺しの悪魔め!!」
弁解する暇も言葉もないまま、おばさんは初めて私を罵った。「あんたはそうやってまたろくに言葉も喋らずに」。クッキーをくれた、同情でも優しいおばさんが、鬼になる。
「ごらん!お前のせいで村が燃え、これだけの人が死んだんだよ!・・・隣の家のアニーはこれから学校に通おうとしていた。向かいの家では赤ん坊がようやく生まれるころだったというのに、お前と来たら!ほら!なんとか言ったらどうなんだ!」
後ろから大きな男たちが私の体をつかんで、祭壇に連れ込まれる。
ああ、ラジエル。ラジエル。どうかこれが見えているのなら、どうか助けて。
声は届かず無常にも左足はもがれ、左目はくり抜かれた。声は出ない。ご丁寧に喉もかき切られた。
『約束を破った罰だよ』そう言われている気がした。
「お前なんか拾ってくるんじゃなかった!」
見えないどこかで鬼が吠える。
私は、死ねない。
痛い。痛い。痛い。声が、でない。
そんな虐殺を月が見ていた。祭壇の天井は、ぽっかりと空に向けて開いており、真上に月が来る時だけその光が祭壇を照らすようになっているのが、『神への捧げ物』みたいで気持ち悪い。
笑ってみていた。
ああ、あなたはいつもどこへ行っていたのだろう。それが神の姿なら、あなたの本当の姿は。ねえ、教えて、教えて、全知の天使様。ああ、声はやはり、出なかった。
「なんてことだ、お前は全ての禁忌を犯したか・・・・!」
釣り上がった口角だけが何も言わずにぽっかりと空に浮かぶ部屋。その光がこの体を照らす時、刃物が差し込まれる。優しさを知ってしまったカーテンの向こう。滴るのは喜びではなく傷の痛みだった。
体は内側から引き裂かれ、消えた体はもう二度と昔みたいに、元に戻ってはこなかった。火で炙られた。戻らないのに私は生き続けた。
いつだって頭の中には太陽がある。たとえ夜でも。悲しいのは、そう、たったひとつの事実だけ。
もう二度とこの体で太陽を見れないことだわ。
あたらしい鉄格子が私の置き場所になった。残った方の足も腱を切られ、足首と手には鎖。
独り言ももう話せなくなった。声が出ない。助けを呼ぶことも、歌うこともできなくなった。自由はもうない。ジャラジャラと音を立てるしか能が無い。
一本しかない足は痩せこけ、卵もろくに産めなくなってきた。焦げた体では血が滲から。
滑稽だ、そう思った。
カンカン、ドンドンドン。建て直す音が聞こえる。時折外から何かをこちらへ向かって投げつける音などがした。
日の光も銀河も差し込まない、窓のない部屋。真っ暗闇。時折三日月。
薄れゆく意識の中、ぼんやりと声なく、つぶやく。
石は、見つけられなかったよ。
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