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【小説日記】残炎のダイアリア

今日が俺の最期の日になるかもしれない。
点滅する意識の中で、俺は静かに覚悟した。


まだまだ暑さの厳しい土曜の午後13時半。
俺は地元の国道沿いにある大型電機店のトイレの個室にいた。
もう30分ほど立てこもっていた。いや正確には、立ち上がることができずにいた。
店舗の冷房はトイレ内にも届いており、十分に涼しいのに、おそらく店内で俺ひとり、サウナにでも入ってるのかというくらいに、噴き出しつづける汗でずぶ濡れになっていた。

おなかがいたい。すごくいたい。

いや待ってくれ、ページバックしないでくれ。話を聞いてくれ。
汚い表現もないし、ちゃんとハッピーエンドだから大丈夫。

ただの腹痛ではない。
消化器官全体を油圧の機械で容赦なく引き絞られているような激痛が、波のように押し寄せてくる。
その痛みは内臓から脊髄を通じて脳を揺さぶって、視界が歪み、吐き気をもよおし、意識が飛びそうになる。
全身から汗が噴き出し、床にボタボタと滴り落ちる。
この痛みが襲ってる最中に少しでも身を動かせば痛みが増幅し、いっそ気絶したいと思うような地獄の苦しみに悶えることになる。

これは俺が、30代になる頃くらいからしばしば悩まされている”持病”だ。
いちど発作が起きたときに、しっかり大腸カメラで検査してみたが、少し大腸が腫れているくらいで、特段の病変などはないとのことだった。

なので、はっきりした原因は不明なのだが、これまでの経験上、なんとなく発生のしくみは自分なりに掴んでいた。

外食して、油っぽいものを食べた時に起きやすい。
そしてまさに今回も、豚骨ラーメンを食いに行った帰りだった。
店を出て国道をクルマで走行中に、いきなり視界が歪むほどの痛みが襲いかかってきた。
さいわいに、ちょうど通りがかった電機店の駐車場に飛び込むことができ、今いるこのトイレ個室にすべり込んだのだった。

といっても、油にアレルギーなどがあるわけではないし、きょう行った店が劣化した油を使ってたわけでもない。ラーメン好きなら大抵の人が知っているような超有名店で、衛生管理は行き届いており、ラーメンもおいしかった。
それに、毎回かならず腹が痛くなるわけではない。数日連続でギトギトな油ものを食っても平気なときは全然平気だ。なので、どんなものを食ったら痛くなるのか、法則性は全く見いだせない。

「なんで今日に限って……替え玉は我慢したのに……。いったい俺が何したっていうんだよ……!?」
半泣き状態で俺はひとりごちた。

いや、そんなことはどうでもいい……!!
未来の話をしよう。このまま永遠にこうしているわけにもいかない。

「なんとか……なんとかして帰らなければ……!」

過去に何度も同じ症状に見舞われた経験から、この後どうなるかはだいたいわかっていた。

激痛の発作は、全体でだいたい10回から15回ほどある。
最初の3回までは数分から10分おき。そこから段々と間隔が延びていって、最後は1時間に1回。そして数時間後にようやく治まる、といった感じだ。

今の時点で、2回めの発作までやり過ごした。
あと10分ほど、ここに留まって3回めをやり過ごせば、次の発作までの間をぬって行動を起こせる、かもしれない。

そう見込みを立てていたところに、3回目の発作がきた。

腸全体が大蛇になって腹膜ふくまくを食い破ろうとしているかのような激痛。
その感覚が無数の雷の矢となって脊髄を駆け上り、次々と脳に突き刺さる。

「ううううぅ……ギギギ……!!」

「ギギギ」ってうめき声、「はだしのゲン」くらいでしか見たことないって人もいるかもしれないが、俺はけっこう自然に多用している。こんなときばっかりだけど。

これだけ苦しいのに、ふしぎと、そこまで盛大に下すわけでもない。
それはそれで、なんかムカつく……。
アレだ。歯磨き粉のチューブ、そろそろ使い切りそうかなって時に、一生懸命チューブのお尻の方からギリギリ中身を絞って、なんとか最後のひとひねりを出そうとするじゃない。
アレをいま、誰か俺より上位の存在が、俺の消化器官に対してやってるような感じだった。
あるいはこれは本当に、先日ようやく諦めがついて捨てた歯磨き粉チューブの呪いかもしれない。今度検証してみよう。いやしねぇよそんなこと。

痛みのあまり、そんなアホな妄想にとらわれつつ、俺はなんとか3回目の発作もやり過ごした。


真っ暗に、あるいは真っ白になっていた視界が、少しずつ戻ってきたころ、俺は決断した。
早くここを出よう。帰り着きさえすれば、あとはなんとでもなる。

家までは、クルマで10分ほど。最短の経路を自分の記憶から呼び起こしてイメージしつつ、1回くらいは次の発作が来るかもしれないので、コンビニなど、すぐにクルマを止められるポイントも、思い出せる限り意識の中でピックアップしていく。
……イメージしてると、普段ならなんでもない距離なのに、今日はとんでもなく長く億劫な道のりに思えて、あやうく絶望しそうになった。
そして家に着いてからトイレにこもるまでの、もろもろの準備もシミュレーションする。
長丁場になるからな。水分補給のための飲み物とか、汗拭き用のタオルとか、もちろん緊急連絡用のスマホも……

これは単なる帰路ではない。いのちがけの冒険だ。冒険の成功には、入念な準備こそがものをいう。
一番怖いのは、痛みで運転を誤ってしまうことだ。
下手すれば……大事故。

今日が俺の最期の日になるかもしれない。
点滅する意識の中で、俺は静かに覚悟した。

脳内で、鷺巣詩郎さぎす しろう氏の「DECISIVE BATTLE」がBGMとして流れ始めた。「新世紀エヴァンゲリオン」の有名な戦闘曲。俺リアタイ視聴世代なのよね。
そうしてムリヤリにでも、自分を奮い立たせようとした。

……よし、いくぞ。
俺は立ち上がり、フラフラした足取りで個室を出た※もちろんお尻はちゃんと拭いた

駐車場のアスファルトが濡れている。俺がトイレでうめいている間に、通り雨が降ったようだった。
最短距離でクルマに向かい、なるべく腹圧がかからないように運転席に乗り込んだ。今日この瞬間だけ、乗り込み位置が高いSUVなんか買ってしまった過去の自分を呪った。

電機店の敷地を出て、可能な限り素早く、国道から細い市道に入った。
これでで少しゆっくり走れる……。

と思いきや、右折が必要な十字路に信号がなく、いつまで経っても交差している車線のクルマが尽きない。
左折だったら、右からのクルマにさえ気をつければ行けるのに……!

じわじわと、第4波の兆候を感じ始めた。まずい。かなりまずい。
こんな状態だと、自分以外のすべてのクルマや通行人が悪しきものに見えてしまう。

「道を開けろ……クソッタレどもが……!!」

カーエアコンの冷風すら刺激に感じて風量を抑えていた中、ふたたび脂汗を大量に噴き出させながら、俺は思い切り毒づいた。

むろん、分かっていた。

今この瞬間、世界で一番のクソッタレは、間違いなく俺だった。文字通り。

ズン、と、ひときわ大きな発作の予兆が、俺の大腸あたりを蹴り上げてきた。

「……っっ!!!」

停車しているときで助かった。
だが、まもなくクルマの流れが切れそうだ。悶えてるひまはない。
なんでもいい、どんな方法でもいいから意識を強く保て……っ!

敬虔けいけんな人なら聖書の一節や仏経典でも唱えたりできるんだろうが、あいにく俺が知ってるのは一個しかなかった。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前……!
 臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前……!!
 
震える指で上下左右に九字の印を小さく切りながら、腹に力を込めないようにぶつぶつとつぶやき続けた※マジでやりました

ようやく右折に成功した後は、ステアリングを捻じ曲がりそうなほど強く握りしめ、田舎の舗装路にありがちな凸凹による衝撃をたびたび喰らいながら、腹の底からよじ登ってくる発作の予兆から必死に気をそらしつつ、道のどまんなかを犬を連れてのんびり散歩しているおばあちゃんを笑顔で会釈しながら回避し(血管ビキビキで)……。

家まであと1キロ弱というところで、家の方向にくっきりとした虹が見えた。
さっきの通り雨のせいか。それまで全然気づかなかった。
その虹が、まるで俺を応援してるように見えた。アホかと思うかもしれないが、本当にそう見えたのだ。そこまでの精神状況だったのよ。

「いける……帰れるぞ……!! がんばれ俺……!!
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!! 臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前……!!!

独身独居中年、Grooki(グルーキ)。
42歳の誕生日から3ヶ月が経とうとしていている、晩夏の午後でございました。


自宅の駐車スペースになんとかクルマを留め、玄関の鍵を開けたところで、4回目の発作が本格的に襲いかかってきた。
激痛とめまいに膝が震えるのを、壁に手をついて耐えながら、俺は勝利の喜びをかみしめていた。勝った。俺は勝ったぞ。何に勝ったのかはようわからんけど。

……しかし、本当の戦いはこれからだった。なんせあと6回以上は発作でのたうち回る運命だ。今までよりはるかに長く、とてもじゃないがひとさまには見せられないような、恥ずかしく情けない戦い。

俺はヨロヨロと、家のトイレに向かって歩き始めた。
トイレは玄関から、一番遠いところにあった。



※タイトルの「ダイアリア」とは、
 英語で「下痢(diarrhea)」のことです。