「おわり」

突然ですが、みなさんに取って

おわり

とは何ですか?

そもそも、「おわり」を考えたことはありますか?
今回は僕にとって初めてのnoteでありながら、非常に最近感じていることを書きたいと思います。

基本的に思考を文字に起こすことが目的なので、まとまっていなかったり、変なこと言ってても気にしないでください笑

目次
- 「おわり」とは
- なぜ「おわり」を意識したのか
- 「はじまり」と「おわり」
- 「おわり」に区切りをつける
- まとめ

今回の内容は「はやと」の思考の一部です。

ただただ、文字にして残しておきたいのですが、今後振り返ることがありそうなのと、意味を持ちそうだったので初noteとして投稿します。

特に意味はありません。

「おわり」とは

1. 終わること。また、物事の最後。すえ。
2. 人の一生が終わること。また、その最後の時。臨終。
by 大辞林 第三版

「おわり」とは、英語だとEnd。

何かの最後であり、必ず来るもの。

始まりがあれば、終わりがある。

みんな当たり前に知っているけど、当たり前じゃない。

何かを始める時はドキドキ緊張するけど、終わりはスッとやって来てスッと終わる。

気付かないうちに、「おわり」は近づいてくる。

気付いた時には、もう目の前に「おわり」がやってきている。


不思議だ。

「おわり」について考えていると、目に涙が出てくる。

基本的に僕は顔や声の抑揚には感情が現れない。

しかし意外と感情的なのだ。

おわり」には何か特別な力があるのかもしれない。


「おわり」を意識した理由

なぜ僕が「おわり」について書こうと思ったか。

これにはいくつかの理由がある。

- 父の早期退職
- 大学の終わり
- 2018年の終わり
- 平成の終わり

色々な「おわり」が重なっている。


まず大きく影響しているのは、父の早期退職だろう。

いや間違えなく、最も大きく影響し、このnoteを書く理由でもある。

実は、今日2018年12月12日で父は早期退職する。

つまり、最終出社日になるのだ。

父は普通のサラリーマンである。

普段は父に話しかけられても、軽くあしらったり、適当に返事をすることも多い。
何故か?

正直分からない。いつの間にか軽くあしらうようになっていた。

いや、分からないというのは嘘かもしれない。

どこか心の中でバカにしていた部分があるのかもしれない。

ちょっと頑固なところがあり、僕から見て悪いところはずっと直らないし、直そうともしていないように見えていた。

またいつもくだらない事で、話しかけてくる。

僕が勉強していても、読書をしていても、集中していても御構い無しにやってくる。

正直話しかけられても、「うるさいな」と思って無視していたこともある。

そんな父だが、僕は何故か父と直接目を見て話すことがどこかむず痒くて出来ない。恥ずかしい。


普段はそんなちょっと小馬鹿にして、軽くあしらっていた。
決して反抗期とかではなく、お母さんとはよく話すが、お父さんとはまぁぼちぼち。

そんな僕にとっては、父は今年で退職するとは聞いていたが、他人事としてしか捉えていなかった。


しかし、いざ父の退職が近づいてくると僕の心の中に不思議と「寂しさ」と「悲しさ」と「感謝」の気持ちが入り混じって湧いてきた。
だからこのnoteを書いているのである。


不思議だが、「おわり」を意識すると急に父の背中が小さく見えたのだ。
父は趣味がたくさんあるから、退職しても恐らく忙しなく色々とやると思う。


しかし人生の半分以上である三十数年務めたサラリーマン生活もついに終わるのである。

まだ社会人が始まってない僕からすると、想像がつかない。

そして色々な苦労をしてきたことがこれまでの言動から推察できる。


本当は最後の出社である今日、

「行ってらっしゃい!」

と言いたい。だが、これまで適当に言っていた分、ちゃんというのが恥ずかしい。

そして帰ってきたら、最後の出社お疲れ様ということと、サラリーマン人生お疲れ様ということで何かしてあげたい。

しかしこれもまた、恥ずかしくて、何をしたらいいのか分からない。


つくづく自分に失望する。

普段偉そうなことを言ったり、それっぽいことを言うが、一番身近にいる大切な家族、親にしっかりと自分の気持ちを伝えることもできない。

知識や情報は持っていても、感情を素直に出せない自分が情けない。

直接伝えられないから、親が見ないであろうこのnoteに書いているのである。

そこでまずは直接言うつもりだが、念のためここでも述べさせてもらう。

お父さん、今まで一生懸命働いてくれてお疲れ様。

本当にありがとう。


次に僕が「おわり」を意識したのは、大学の終わりである。

実は今日で、大学卒業まで残り103日である。

浪人して、第一志望の早稲田政経に奇跡的に合格した。

合格の画面を見た瞬間に、叫んだ。

正直人生の中で最も叫んだ。家にはちょうど母が居たので嬉しくて家中を飛び跳ねたし、お母さんに何度も確認してもらった。もちろんすぐにお父さんにも電話した。

そこから大学ではいろんなコミュニティに入っては辞め、別のものに目が移り、新しくできる仲間、自然と離れていった仲間がたくさんいる。

色々と悩みもあったけど、全体的にとても好き勝手にやれたし、とても素敵な仲間を今持てている。

しかし、この大学生活も残り少しである。

まだやり残したことはないか?と日々考えると、もっともっと多くの人と密度の濃いコミュニケーションが取りたかったと思う。
今いる仲間とも、もっともっと深い繋がりを作りたい。

僕はお父さんに対してもそうだが、コミュニケーションを疎かにしがちである。

「相手がなんとなく察してくれるだろう」「相手が理解してくれないのが悪い」とどこか思っていた。

しかし、僕は心の奥底で実は気づいていたのだ。

「僕の説明に仕方、気持ちの入れ方、伝え方、表情、思い、選ぶ言葉」全てが足りていなかったのだ。

僕は変に人を気遣う癖があり、自分から積極的に話し掛けたり、話を広げたりすることを躊躇してしまう。

「断られたら・無視されたらどうしよう?」「相手がつまんなそうにしてたらどうしよう?」

このように不安になるのである。
それを、冷静でクールな方がかっこいいと言い訳を作ったり、自分と話が合う人だけで良い!といつの間にか現実逃避していた。

しかし、本当にそれは自分の心と向き合えているのか?
常にこの疑問は心にくすぶっていた。

正直、過去のことはすぐに忘れるし、いつも未来のことばかり考えている。

しかし、残りの大学生活はもう少し落ち着いて、過去の自分と今の自分を見てあげる時間にしたい。

そして多くの人と、より深い繋がりを作れたら最高ではないか。



次は2018年の終わりと平成の終わりである。

これは文字通りである。特に書くことはありません。笑

無理やり少しだけ...

寒くなってくると人肌が恋しくなったり、年末年始が近づいてきて街中も少し様子が変わる。

普段はスマホをしながら歩き、イヤホンをしてスタスタと歩くのだが、ふとした時にイヤホンを外し、スマホもポケットにしまい、街を眺めながら歩くことがある。

すると、周りの人・建物・風景が新鮮に見えるし新たな発見がたくさんある。

これから社会人として働いていく中で、目の前の成果にこだわり続けると同時に、たまには一歩足を止めて、自分が普段見ている世界とは違う世界を見ることを忘れないように生きていきたい。

「はじまり」と「おわり」

さて、ここまでツラツラと「おわり」について書いてきました。

因みに、「おわり」と平仮名にしているのは、なんとなく「終わり」が嫌だからです。(普段は別に終わりと使います)

本当に全てが終わってしまう気がするから。


本題に戻り、「おわり」があるということは必ずどこかで「はじまり」があるはずです。

僕は2019年4月から社会人として社会に出ます。

これから長い社会人生活が始まりますが(細かい社会人がいつまでかは考えませんが、一応働き続けるまで)、これまで以上に期間は長いです。

これまで最も長い1つの区切りは小学校の6年間ですね。

それ以外で言うと、少林寺拳法とピアノと吹奏楽がそれぞれ9年間。

しかし、社会人としては一般的には数十年は続きます。

果たして常に「おわり」を意識して生活していけるのでしょうか。


もうちょっと視野を広げます。

この文章を書いている僕。そして読んでいるあなた。

お互いに既に「死」という「おわり」に近づいています。

これまでは「死」というものは言葉では理解していても、考えたことはありませんでした。

しかし、「おわり」について考えていると自然と「死」も考えざるを得ません。

果たして、僕は死ぬまでに何をして、何を残せるのだろうか。

この問いに対しては、常に考え続けていくことになると思います。
仲良くしていこう。笑


さて、もう一度社会人という枠に戻します。

社会人としての「おわり」もありますが、それぞれの仕事にも「おわり」があります。

時間はご存知の通り、無限ではありません。

特に最近はやりたいことが多いが、時間が足りません。

これまでは時間はある!と思っていたのですが、いざやってみると時間はありませんね笑

これからは、自分の時間という資源をどこに投資するかをより考える必要があります。

その時間の投資や、それぞれの仕事にはただ1つの回答はないでしょう。

そして間違えも無いでしょう。

それぞれが納得できれば良いと思います。変に成功や失敗、正解や間違えに囚われないことが重要だと思います。(これは自戒を込めています。)


ただし、常に考えておかなければならないのは、「おわり」です。

いつか必ず来る。その「おわり」は常に頭の片隅に入れておきたい。

そう感じる最近です。

「おわり」に区切りをつける

最後は、「おわり」に区切りをつけるということです。

どういうことか。それは次のステップに進むために、しっかりと「おわり」を意識して、「おわらせる」ことです。

正直僕は、送別会やお別れ会、その他おわりを意識するイベントや出来事、時間の区切りを意識する事柄は好きではありません。

言葉にはできない感情が複雑に絡み合うからです。

しかしその感情を言葉にして、うまく表現できないのが余計に悔しいのです。


だから何かと理由をつけて、様々な「おわり」から逃げたり、「おわり」を意識しないような方向に捉えていました。

例えばサークル。何と無く言い訳を作り、途中で投げ出したり、自然とフェードアウトしたり。

本当は最後まで頑張るべきなのに、どこか「おわり」が怖くて逃げ出してしまう。

しかし、これは過去の出来事にしっかりと区切りをつけていないのでは無いか?と。

そして「おわり」と向き合い、結果を追い求め、その時を全力で過ごしていないのでは無いか?と。

その結果、次のステージや舞台でもまた全力で取り組むことができなくなっているのでは無いか。

このように最近感じるようになりました。


今を全力で生きる。最善を尽くす」。


言葉で言うのは簡単ですが、本当にできているだろうか。

正直自信はない。


しかし、ちょうど良い機会がある。

大学生活残り100日程度。

まだまだ出来ることはたくさんあるし、もう一度振り返り、一つずつしっかりと向き合っていきたい。

コミュニケーションは不器用だし、優柔不断なことも多いけど、本当にこのままで言い訳がない。

今、この時にこの思いを持ったと言うことは何かのサインだろう。

僕は、「おわり」を意識しながら、しっかりと「おわり」と向き合い、大学生活を終え、社会人としてスタートを切りたいと思う。

まとめ

ここまで読んでくださりありがとうございます。

普段僕はたくさんのニュースや本を読み、それらの知識はたくさん持っていると自負しています。(一般的な学生と比較して)


しかし、自分の言葉で何かを語ることは少なかったように思います。


今回改めて、「おわり」ということについて色々と考えを言語化してみました。

まとめ
- お父さん、ありがとう。お疲れ様。
- 「おわり」を常に頭の片隅に入れておこう。
- 「おわり」は意識していないと気付かぬうちにスッと近くに来ている
- 本当の自分と向き合い、素直にそれを表現する
- 「今」を全力で生きながら、1つずつ「おわらせ」よう。

読んで下さったあなたがどのように思うかはわかりませんが、少しでも何かの役に立てたら幸いです。

読んでくださり、本当にありがとうございました。

#note #初note #エッセイ #自分語り

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