地方を再生するための視点がここにある
今日は二冊の本を紹介したい。
たまたま続けて読んだこの二冊の本には、ともに本当の意味での地方創生に必要であるにもかかわらず、私たちが見落としてしまっていることについて書かれていた。
以前にも書いたように、資本主義はそれが資本の自己増殖を志向する限りにおいて、新自由主義やグローバリズムという一種の凶暴性を帯びて人々を分断し地方を破壊すると私は考えている。そして、共産主義に対する資本主義の勝利がその凶暴性を人々に内面化し、そのことが貧しい境遇にある者に”自己責任”というもっともらしい言葉を浴びせることによってセーフティネットさえも切り裂きさいている。それが21世紀初頭の我が国の姿であると私は見ている。
自分より貧しく恵まれない境遇にある人たちを”自己責任”という言葉で冷たくあしらってきた人たちもまた、この新型コロナの影響で同じ境遇に転落しうる。そのときに”これもまた自己責任である”と納得できるだろうか?いやできまい。きっとその時になってわかるだろう。現代の日本にはいかんともしがたい格差が存在し、その格差にあえぐ人たちの置かれた状況を”自己責任”という言葉だけで判定することがいかに無情なことであるかを。
これら二冊の本を読むことで内面化された資本主義をどのように批判的にとらえるかについて、地方が今後果たす役割がいかに大きいかということがわかるだろう。そして、このことに目を向けなくなり経済的合理性に基づく成長を追い続けることがむしろ豊かさを失っている最大の原因であることに気づくのではないだろうか。
さらに言えば、新型コロナによって失われた日常を取り戻すためのニューノーマルとやらが、新型コロナ以前のノーマルをさらに純化したようなネオノーマルにならないように注意しなければならないという警句を読み取らなければならないと私は考える。どちらか一冊でもいいが、時間に余裕がある人は日本列島回復論から読むことをお勧めする。
日本列島回復論 井上岳一
本書は第一章において日本の現状分析を行う。株価やGDPのような市場介入や係数の変更によって調整可能な数字ではなく、自殺率、生活保護受給率、総体貧困比率、所得の推移といった私たちの暮らしに直結するようなデータを用いて日本の状況を解説している。これを読めば、日本は平等で豊かな国、子どもたちが希望を抱くことができる国とは言い難い状況にあるという認識を持つに至るだろう。ダチョウは危機が迫ると砂の中に頭を突っ込み、危険を見ないようにしてやり過ごすといわれ、「ostrich(ダチョウ) policy」(現実逃避策)といった言葉もある。第一章は私たちがダチョウの群れのごとき思考回路に陥っていないかという警鐘を強く鳴らしている。
加えて第一章の終盤から第二章において、田中角栄の日本列島改造論を契機として国土の均衡ある発展のための土建国家システムが、社会保障という側面を持っていたことを明らかにしている。そしてポスト土建国家においてはインフラの老朽化対策と同様に土建国家システムが担保してきた社会保障の仕組みを作り直さなければならないと述べている。
『男はつらいよ』シリーズで寅さんが「稼ぐに追いつく貧乏なし」と言うシーンを引き合いに出して、かつては働いて稼げは貧乏になることはなかったが、現在では「稼ぐに貧乏が追い付いた」現状を著者は憂いてもいる。
山水郷の歴史
こうした状況へのカウンターアタックの手段として著者は本書において山水郷の重要性を説いている。それにあたって縄文時代以降の日本人の暮らしが山水郷の恵みによって維持されてきたこと。近代以降『ふるさと』の唄に象徴されるように人材の供給源として山水郷が役割を果たすすとともに、山水郷は資本主義の中でニーズを失い、見捨てられつつあること。そしてその結果として山水郷は野生の脅威にさらされていることなどについて詳細に解説している。
私が住んでいる能登島ですら海を渡ってきたイノシシが繁殖し、農作物に大きな被害をもたらしている。私はこうした事態について、近年の積雪の減少が原因かと考えていたがそれ以上に里山の機能不全がもたらした影響が大きいことを知り、衝撃を受けた。たしかに、福島県の避難地域において人間が住まなくなったまちにイノシシが大量発生している様子は見たことがあるし、数年人間の気配がなくなるだけで野生はいとも簡単に人里を飲み込んでしまうという、野生のエネルギーの強さを改めて認識するにいたった。
山水郷の復権
私たちが日本列島で豊かな暮らしを維持していくためには、国土の7割以上を占める森との共生が必要になる。とくに野生林と人里がせめぎあいつつ、豊かな自然の恵みを暮らしのベーシックインカムとして生かすことができる山水郷に住み、資本主義を完全には内面化しない人々が一定数存在することは国全体の安全装置として大きな役割を果たすであろうということに私も強く同意しうる。
山水郷を都市部への人材供給源としかみなさず、そこにある恵みや機能をないがしろにして成長を追い求めてきたのはたかだかこの数十年の期間にすぎない。このことは東京をはじめとする都市圏に対して地方を劣等なエリアとみなし、二軍的存在として扱ってきた期間でもある。そして残念なことに地方に住む私たちもまたそのことを当然のこととして受け入れてきた面を否定できない。「ここには仕事がない」と子弟を都会に送り出し、都会の大企業に勤めるわが子を誇らしく語る人たちを私もまた少なからず見てきた。
しかしそんな高度経済成長の軛から解き放たれた若者たちがいま山水郷を目指している。そんなムーブメントは決して大きくないかもしれないが確実に広がりを見せてる。日本の山水郷は存続の危機にあるとはいえ、そこで暮らすババ様(著者の表現)たちが暮らしの智慧ともいうべき手業を伝えることができる今が山水郷復権のためのギリギリのタイミングではないだろうか。
幸いにも、新しい資金調達やテクノロジーを用いたビジネスを山水郷で展開しようとする野心的な取り組みも少なからず出てきた。私もまた資本主義を内面化してしまっている世代であるゆえに、彼らの感じる豊かさに完全に共有することは出来ないまでも、彼らの中に大きな可能性を感じてる。
山水郷は郷土と同義であり、郷土を引き受けて生きるとは運命を引き受けて生きることと同義だろう。ふるさとが「こころざしを果たしていつの日にか帰る場所」から「人々のつながりの中で、肩の力を抜いてこころざしを果たすための場所」となるとき日本列島の回復が始まり、私たちの未来に明るい光がともる。本書を通じて著者が述べたかったことはそういうことではないかと思わずにはいられない。
これこそ能登において取り組むべき課題
私が住んでいる能登は「能登の里山里海」として世界農業遺産に認定された土地である。山水郷が人の暮らすエリアと里山を含めたフィールドを指し、その水が流れ込む海が里海ということであるのならば、能登は日本の山水郷を代表する地域の一つのはずだ。すでに能登半島の先端にある珠洲市において「里山マイスタープログラム」により多方面の担い手が生まれていることは、日本列島回復のためのカギとなりうるのではないだろうか。
人の暮らしが自然に包摂されており、様々な暮らしの智慧を伝えながら、運命を引き受けて軽やかに生きる。多くの能登人がそれを体現したときに、この地域は世界で最も輝いている場所の一つになるだろう。そんな日が来るように自分もまた役割を見つけ果たしていきたいという思いに至る一冊となった。
君のまちに未来はあるか? 除本理史 佐無田光
もう一冊はこちらの本である。
私が二冊目としてこの本を進める理由は、一冊目の日本列島回復論を実現するためのローカル志向や田園回帰といったトレンドについてわかりやすく書いてあること。そして具体的な取り組みの例として金沢市と能登について取り上げられているため、石川県民である私には非常にわかりやすかったということもある。
第三章 金沢市の挑戦
石川県議会議員として県全体を眺める機会を得て私は金沢市が良い意味でモンスター級のまちであることを知った。とにかく文化の厚みに秀でており、そのぶんだけ様々なコンテンツのレベルが高いのだ。40万人都市というスケールとしては決して大きくないはずの金沢市だが、二泊三日程度ではすべてを見て回ることは出来ない。このことは金沢から能登への誘客に苦労する理由でもあり、能登にとってはつらいところもあるがとにかくすごいまちなのだ。これは前市長の山出保氏の功績によるところが大きいだろう。そしてそれだけではなく新幹線の開通が遅れたために、逆に風土を凝縮する時間を得たことも功を奏したのかもしれない。
金沢の魅力を凝縮するために、市長やいわゆるまちの旦那衆がどのようにかかわり、金沢らしさを具現化してきたのかについての物語は、担い手の意気込みがそのまちの未来を左右するということをよく表している。
第四章 奥能登が探る地域の未来
第四章のほうが日本列島回復論の山水郷の話とよりリンクしている。先述した里山マイスタープログラムのほかにも里山ビジネスとして大野さんの炭焼きビレッジやまるやま組の取り組みが紹介されており、こうした取り組みを紹介することを通じて現代における農村社会において里山里海(山水郷)の価値を実現する条件として本書は以下の六つを提起している。
①自然に生かされた暮らしの知識や技能の継承
②自然の恵みを受ける権利としての地域の共同体への参加
③低生活費(部分的に自給自足できる生活基盤)
④多就業スタイル(副収入源の組み合わせ)地域資源を使った商品開発
⑤支えあいの人的ネットワーク
⑥基本的な生活インフラ(教育、医療、行政サービス)へのアクセス保障
たしかにこうした条件を満たしつつ、さらに自身の個性を発揮して様々な価値を創出している(まさに地方創生!)若者を私は何人も知っている。
その土地にしかない固有性と自分の人生をリンクさせることは幸福や豊かさの実現のための十分条件となりうるということなのかもしれない。そしてそれこそが私たち団塊ジュニア世代を含むおじさんたちが一番ないがしろにしてきたことなのだろう。反省しなきゃいけませんね。
最終章
とはいえ、まだまだ日本全体としてみれば地方は二軍的存在とみなされているのが実情だ。しかし日本における大きなフロンティアは地方にこそあると価値の転換をはかり踏み出そうとする人はこれから増えていくだろう。どうかそんな皆さんには、本書の最終章に目を通すことをお勧めする。ここにはポスト資本主義を豊かに生きるためのヒントがちりばめられているのではないかと思うのだ。そしてすでに地方に生き、この地域の課題解決のためにできることを模索している私たちにとっても重要な示唆が含まれている。
最後にもう一度書きます。
ふるさとが「こころざしを果たしていつの日にか帰る場所」から「人々のつながりの中で、肩の力を抜いてこころざしを果たすための場所」となるとき日本列島の回復が始まり、私たちの未来に明るい光がともる。
このことをあらためて認識させてくれる二冊になりました。
そういえば、共著のうちの一人である、佐無田光氏は金沢大学教授でなんと私と同じ歳(1974年寅年生まれのタイガース)ではないですか!
近いうちに突撃してこようと思います。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
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