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国体論-菊と星条旗- 白井聡

最終回だけど、シリーズは続く

第20回目を迎えたReading at Homeシリーズは今回が最終回となります。もともとは新型コロナの影響でステイホームが推奨された中でネーミングしたシリーズでした。しかし、Homeだけではなく屋外や図書館、カフェなどいろんなところで思い思いの本を広げる日常が戻りつつある今、読書のある日常にふさわしい新しい名前で続けていきたいと思います。

最終回にふさわしい本としての国体論

とくにジャンルを定めるでもなく、気ままに自分がチョイスした本を紹介してきた。したがって20回目といっても本当に個人的な節目でしかないけれど、それでもやはりその節目にふさわしい本を取り上げたいという思いから、何冊か読んだうちの一冊として『国体論』を取り上げることにした。白井聡による本は二冊目で、実は前回の『武器としての資本論』に続き二冊連続の紹介となる。

少し話はそれるが、私は自分のことを保守主義者であると表明してはいるものの、”保守”という言葉が指し示す政治的スタンスや思想信条については多様な解釈があり、私としては過激なナショナリストや懐古主義的な方々と同一視されるのは本意ではない。むしろそういう勢力と距離を取りつつ、保守とリベラルをいかに融合するかということが自分自身のテーマであると考えてさえもいる。
保守とリベラルを融合させるという高度な理論を構築するにあたって私は十分な知識を有しているわけではないものの、浅薄な保守主義者達がリベラル勢力を非国民扱いしつつ、彼ら自身が新自由主義者(ネオリベラリスト)としてふるまうことを滑稽だと指摘する程度の常識は持ち合わせているつもりだ。
私がまさにそうなのだが、世の中には自分が保守主義的傾向にあるにもかかわらず、そうした新自由主義とは一線を画したいものの、その両者を分けるための言葉をうまく紡ぐことができないというもどかしさを抱えている人が少なくないのではないだろうか。そして、そのような人たちにとって非常に扱いづらいテーマに「国体」というものがあると私は考えている。

『武器としての資本論』を書きあげた白井聡が難題ともいえる「国体」についてどう論じるのか非常に興味があった。サブタイトルの『菊と星条旗』が天皇とアメリカを指していることや、ルース・ベネディクトによる『菊と刀』の現代版として戦後を描く試みであろうことは予想できるものの、この本が予想を超えて私に何をもたらしてくれるのかという期待に胸を躍らせるようにページをめくった。

「国体」は死んだのではなく再編された

戦前の国体を定義するならば、万世一系の天皇を頂点に戴いた「君臣相睦み合う家族国家」を理念として全国民に強制する体制であったと著者は言う。私もこの点において同意するところだ。そして、この体制が「国体」への反対者や批判者を根こそぎ打倒しつつ破滅的戦争へと踏み出し、軍事的に敗北が確定してもそれを止めることが誰もできず、内外に膨大な犠牲者を出した挙句に崩壊したという認識についてもおおむね同意することができる。

我々日本人はこの教訓から「国体」なるものが危険なものであることを学び、国体を放棄することで戦後民主主義や平和主義に基づいた日本を形成してきたというのが一般に流布する認識であり、その点で国体はすでに死んでいると多くの日本人は考えているといって間違いない。にもかかわらず著者は現在の日本の閉塞状況は、否定し打ち消して我々が存在しないものとしてきた国体が、実は再編されて私たちの精神を覆っている。あるいは深く撃ち込まれていると指摘する。そういえば、ブレイディみかこが著書This is Japanにおいて日本人は見て見ぬふりをするのではなく、存在しないものとして不都合なことを認識の外に置くのが得意だと指摘していたが、日本人にとって国体はまさにそういうものなのかもしれない。

いうまでもなく、戦後の国体の再編はアメリカの手によってなされた。白井聡は戦後においてアメリカは”征夷大将軍”として君臨し、天皇の権威を通じて日本を統治してきたというが、これは例えとして秀逸である。征夷大将軍は国民の庇護者であり、恐怖のみならず慈愛をもって国を統治するのが歴史の常だ。もしもアメリカが日本国民にとって恐怖の対象でしかなかったならば、一時的に新憲法を押し付けたとしてもここまでの長きにわたってそれを私たちが維持し続けることはなかったと思われる。しかしアメリカは歴史上の征夷大将軍と同様に支配者であるとともに庇護者でもあった、アメリカは日本のあこがれでもあり、そしてアメリカは日本を愛してくれているという幻想を日本人は抱き続けてきたのだ。たしかに冷戦下においてはアメリカにとって共産圏と対峙するための地政学的重要拠点を抑えるという点で、また日本にとっては軍事的なコストを払うことなく経済的豊かさを追求するために、よほど独立国としての路線を主張する者でなければ都合の良い関係であった。改憲論者の中には現憲法がアメリカの押し付けによるものであるがゆえに改憲せよと主張する者もいるが、それは半分間違いだ。西部進が再三指摘してきたように押し付けられたのではなく、我々は愛すべきアメリカから頂戴し、押し頂いてきたのだから。

再び話は脱線する。私の勝手なイメージといえばそれまでなのだが、私のイメージでは明治維新以降の日本の近代を戦前と戦後で分けるならば、タイムスパンでいうと戦前対戦後は2:1ぐらいの比率であろうというのが感覚的な長さだ。戦後約30年ほどで私は誕生し、学校で歴史を学んでいたころはおおむね戦後45年を経過したころであった。明治維新から終戦までは77年なので私の感覚は意外なことにそのころの状態に近いままということになるだろうか。もちろん戦後60周年には当時の小泉首相が、戦後70年には安倍首相が談話を発表しており、頭では理解していたつもりだが、やはり戦前は戦後に比べて長いというイメージが私にはある。

しかし考えてみると著者が指摘するまでもなく2022年には明治維新以降から終戦までと終戦から現在までの時間が77年間で等しくなる。明治維新において日本の近代化のために前述した国体を作り出し、国民がそれを国民が共有して最終的には破綻したように、戦後の国体もまた何らかの形で機能不全を起こし破綻するのではないかと著者は予想している。確かに比較してみると戦前と戦後の国体がそれぞれ誕生期から安定期へ、そして崩壊期へと至る過程について共通する点は少なくない。そして平成という時代はおそらく後世において戦後の国体の崩壊を決定的なものにするための30年であったと評されるだろう。超高密度に濃縮された時間や、勝敗を分かつ決定的な戦略や戦術によって構成される戦争とは対照的に、30年という長い時間をかけてゆっくりと進んだ戦後の国体の崩壊に対して、我々はあまりに無自覚であったといっていい。しかしそもそも国体が再編され温存していたことにさえ気づかずにいたのであるからそれはやむを得ない仕儀とも言える。

戦前の国体と前後の国体がそれぞれどのように成立し、崩壊していくのかについての考察はぜひとも本書をあたってほしい。

三島由紀夫が死の直前に次のように書いている。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日増しに深くする。日本はなくなってその代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。

三島由紀夫の慧眼には驚かされるものの、すでに日本は「富裕で抜け目がない」という状態ですらなく、現実は三島の予想を下回っているといっていい。こうしたことがなぜ起きてしまったのかについて、著者の仮説に照らして検証することは大いに意味のあることだと私は考える。

国体と国柄そしてそれをつなぐ天皇

日本の国体について戦前と戦後を一貫して貫く存在があるとしたらそれは言うまでもなく「天皇」である。天皇は憲法にもある通り日本の象徴であり、祭祀王として歴史と伝統を背負い、国民のために祈る存在であると私は考えてきた。迂闊なことに、上皇が退位の決意を表明した時には、いわゆる公務を減らしてでも生涯天皇として我々のために祈り我が国を照らしてほしいと考えていたものだ。しかしながら、本書を読んで私は大きな思い違いをしていたことを突き付けられた。私の考えは裏を返せば「天皇は祈っていればよい」と主張した一部の保守系の専門家と同じものであったからだ。

上皇陛下は平成の30年間動き続けてきた。著者が指摘するように「動く」ことが「平成流」の天皇・皇后の行動の特徴だったのだ。上皇が平成の間一貫して「全身全霊」で祈り続け、それによって特に災害の多かった平成の間多くの国民が救われたのは、単に宮中において祈るのみならず、被災地に赴いて、被災者と同じ目線で対話し続けたその積極的姿勢によって国民が敬愛の念を高めてきたからに違いない。

宮中にいて祈るのみでは、ましてその祈りのための祭祀さえも十分に執り行うことができなくなっても、存在するだけで「象徴」としての天皇の役割を果たすことができると、保守系の専門家や一部の政治家に言われた時の上皇の失意は想像を絶するものであっただろう。「動く」ことにより国民との交流を深め、それに基づいた祈りによってはじめて象徴としての天皇は存在しうるという信念で「全身全霊」で国民とともにあろうとしてきた30年を彼らは否定したのだ。

2016年の「お言葉」のなかで上皇は次のように言及している。ここには上皇陛が天皇としてなしえてきたことへの満足感とともに、無理解な一部の人間へのアイロニーが込められてはいないだろうか。

私が天皇の位についてから、ほぼ28年間、この間は私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々とともに過ごしてきました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事に当たっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました。(中略)皇太子の時代も含め、これまで私が皇后とともに行ってきたほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなしえたことは、本当に幸せなことでした。

平成の間動き続け、国民に寄り添い続けた上皇はその立場上、著者が言うような戦後の国体の崩壊の兆しについて言及することはかなうはずもなかった。また、平和をこよなく愛した上皇が国体という言葉に大してどのような思いを抱いていたかについてはうかがい知ることはできない。しかし、このお言葉を読む限りにおいて、三島由紀夫が予見し著者が指摘するような崩壊の兆しを感じ取り、その崩壊を押しとどめようと「象徴」としての役割を担ってきたと読み取ってしまうのは私だけだろうか。

再び西部邁に登場願うとしよう。彼は常に保守主義者が守るべきものとして「国柄」という言葉を用いていた。国柄という言葉がさす意味も明瞭ではないものの、歴史や伝統に根差した行動様式の規範とでもいうべきものだろう。国体がどちらかといえば統治システム全体をさすものであるのに対して、国柄はその国体(及びそれを明文化した憲法)が依るべきわが国固有の規範であるといえる。とするならば、象徴天皇は国民のために祈るのみならず、日本の国柄と国体を結び付けておくための結節点としても重要な役割を担っているとは言えないだろうか。

アメリカは日本の国体を再編することはできても、日本の国柄を再編することはできない。国柄に依らない国体は崩壊する宿命にあり、私たちはいまそこに差し掛かっているのかもしれない。そして本書の副題にある星条旗はまさに戦後の国体が崩壊する原因の象徴であるといえる。

戦後の国体が崩壊しても私たちは新しい国体を再編しなければならないのではないだろうか。再編する前に再定義が必要かもしれない。いずれにしても、それは日本の国柄の思想から再出発を意味する。そこにおいては上皇が平成の終わりに表明した危機感を十分に私たちも感じ取る必要があるはずだ。

とはいえ、私たち現代の日本人は国柄にもとづいた国体を再再編できる力量を持ち合わせているか大いに疑問である。平成の間天皇が皇后とともに戦い続けたにもかかわらず、この国において様々なものが劣化したのは間違いない。国体の再再編が必要だとしてその先導役となるべき国会議員をはじめとした政治家にその力量が備わっているとはいいがたいのではないか。上皇のお言葉を読み返してみるといい。お言葉の中の天皇を政治家に。祈りを政治に置き換えて読んでみたときに、上皇がなしえてきたことと同じだけの活動をしてきたと自負できる政治家はどれだけいるだろうか。

こうした政治家を選び続けてきたのもまた我々国民である。白井聡は本書の最後でこう述べている。

「お言葉」が歴史の転換を画するものでありうるということは、その可能性を持つということ、言い換えれば、潜在的にそうであるにすぎない。その潜在性・可能性を現実態に転嫁することができる、民衆の力だけである。
民主主義とは、その力の発動に与えられた名前である。

いうまでもなく、結局は我々自身が問われているということなのだ。


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