「自分と向き合う」とはどういうことか?

 高校の修学旅行か何かでだったろうか。私は就寝中に「眠れない!」という寝言を叫んで、ひとしきり場を沸かせたことがある。遠い昔の、他愛なくも楽しい思い出だ。
 しかしその後私の寝言は、長い年月のうちに少しずつひどくなっていったらしい。らしいというのはなにせ寝ている間のことなので記録も記憶もないからだが、私と寝所を伴にした相手から「ゆうべ寝ながら怒ってたよ」といったようなことを聞かされる機会は、どうも歳を重ねていくごとに増えてきてるようだと、あるとき気づいたのだ。

 これはどれくらい珍しい症状なのか、自分は何に対して怒っているのか。寝ている間の自分のふるまいについて、当時はたまに考え込むこともあった。そして十年ほど前だろうか、ネットで調べてみたら同様の症例はままあることだとわかった。引き続き調べていくとおもな原因はストレスだとのことで、まあそうでしょうねという以外には、なんの感想も浮かばなかった。

 言われなくても当時は毎日毎時間、ひどいストレスの中で生きていた。仕事中にイライラが耐えきれないほどになるとトイレの個室で声を出さずに叫び、涙を流さずに泣き、何も殴らないように気をつけつつ暴れ、顔を真赤にして砕けそうになるほど奥歯を噛み締めて、そうやってひとしきり無音で錯乱した後、何食わぬ顔を整えてまた勤務に戻るというようなことを1日に何度も何度も繰り返し、それでどうにか働き続けることができていたという、ものすごくギリギリな時期だった。
 寝てる間も怒ってるのはむしろ当然だと思った。問題は、かつての私に昼も夜も取り憑いていたあの激しすぎる怒りは、いったい何に対してのものだったのかという点だ。


 思い切ってザックリ言うと、ストレスの原因というのはたいがい、「こんなのは不当だ」という思いに尽きるんではないかと思う。
 自分の周囲で起こることや自分という個人の扱われ方に対して、または人生そのものに対して、こんなのはおかしいと強く思う。
 仕事を変えても人間関係を変えても、立ち向かっても逃げても、気がつけばまた「なんで自分がこんな目に合わされるのか」とイライラしている。そんなことをずっと繰り返している人を今までたくさん見てきたし、私もそのひとりだった。しかしあるときようやく私は気づいた。不当なことなどはじめから何も起きていなかったのだということに。


 簡単なことだ。そもそも不当な事象はまず発生しない。ましてや毎日、何年間も不当な事象が継続するなどということはありえない。ある事象が日常的に周囲で確認される場合、それはもはやまったくもって不当ではない。どう考えても順当なのである。

 日本語というのは難しいもので、「不当」という語には「望ましくないこと」や「あってはならないこと」というニュアンスもある。
 たとえば学校でいじめにあっている生徒がこういった意味で自らの境遇を不当だと感じるのは正しいと思う。しかし、「自分がいじめられるなんてあり得ないのに」という意味で現状を不当だと感じているなら、残念ながらそれは違うと言わねばならない。
 (すべての事象は)あり得ることだから起きた、ただそれだけのことなのだ。そこには好みも望みも関係ないのだ。


 他者は自分を映す鏡であるというような成句は世間でよく聞く。感じのいい人は感じのいい扱いを受け、感じの悪い人は感じの悪い扱いを受ける。当たり前のことがここでも起きているだけなのだが、後者の人、感じの悪い人の多くは自分の扱われ方について不満を持つ。ストレスを感じる。そして、自分と向き合うチャンスをまたフイにする。

 自分と向き合うのが大事だというのも、これまた飽きるほど日常的に出くわすフレーズである。かっこよさげな有名人がインタビューに答えてよく言ってるイメージだ。しかし具体的に、「自分と向き合う」というのはどういうことなのだろう。

 向き合うという言い方からは、どうも1対1で対峙している画が浮かぶ。エンタメ作品やゲームなんかではもうひとりの自分が現れて主人公はそいつと戦ったり話したりしなくてはならないといった展開がたまにある。おそらく自分と向き合うということをビジュアル化するとそうなるのだろう。ぜんぜん違うと私は思うが。

 自分と向き合うというのは、自分を知って受け入れることだ。だが自分は自分のすべてを知っているわけではない。まつげや背中みたいに自分では見えない部分もあるだろうし、見たくないから見てないという部分もあろう。だから自分と自分の1on1で対峙するなんてことがもし本当にできたところで、おそらく大して得るものはない。自分が知らない自分を、教えてくれるのは他人なのだ。自分と向き合うべきときに、他者の存在を排除していてはダメなのだ。

 たとえば親からは愛されず同性からはいじめられ異性からはバカにされているような人が、そんな自分をまるごと知って受け入れるというのは本当に難しいことだろう。しかし極端な話、それが自分と向き合うということの困難さなのだ。
 自分とはどういう存在なのかということを自分だけでなく周囲の人たちの目も通して知ること。それには痛みが伴う。
 自分の見えていなかった部分や、見ようとしてこなかった部分をいきなり全部見せられたらそれはたしかに辛かろう。こんなのはほんとの自分じゃないと思い開きかけた目をまた閉じたくもなるだろう。自分が見たくないと思うような反応をするお前たちのほうが間違ってるんだと断じてしまいたくもなるだろう。知らなかった自分の側面を今まで意識の外に追いやってきたのは、けして故なきことではないのだから。
 しかしその逃げの一手を勇気を持って改め、自分に対する周囲のネガティブなふるまいにさえ一応の筋が通った理由を見出そうとすること。それが、自分と向き合うということなのだ。


 私はゲイである。しかしカミングアウトはしていない。なので面と向かってホモだオカマだと蔑まれたことはない。もし自分がそうされたらという想像でものを言うつもりもない。
 しかし自分が属している一群が各所で嘲られたり遠ざけられたりしているのはよく目にしている。有名人が同性愛者に対して問題発言をしていたりSNS上のアカウントが同性愛者に対するヘイト発言をして炎上しているのもたびたび目撃している。
 そういうとき私はどう思っているかというと、別段どうも思っていない。間違っても怒ったりはしない。どころか、「まあそうだよな、わからなくもないな」と思っている。
 ヘテロセクシャルのいわゆる典型的な一般大衆の中で、ある程度の割合を占めている人々が同性愛者に対してネガティブな感情を抱くことは、私にとって不当なことなんかではない。むしろ順当だ。いいことではもちろんないが、理解できないものではない。

 私はゲイである。ゲイはよくバカにされ、遠ざけられ、ときには攻撃もされる。自分はそうした扱いをされることもよくある存在なのだと理解している。なので、いくらゲイや同性愛者が嫌われていようとそれは不当ではないと思っている。これも、あり得ることだから起きたというただそれだけのことなのだと思っている。
 今この世で普通に起きていることに対して問題意識を持ちやめさせようとする、新しい倫理観を根付かせようとする、その気持ちや活動を否定しようとは思わない。でもそのムーブメントが結実するまでにはあとどれくらいかかるんですかという冷めた視点は持っている。
 いま現在生きているゲイたちは未来の礎になれればそれで本望なのだと思うことはできない。今のこの世の中で私たちはいかに生きるべきなのかというのを私は追求しようとして、そのためにこんな記事を書いている。



 自分とはこうしたものなのだという、どこから見ても誰から見ても現実と矛盾しない確かなイメージを持つことは精神を安定させるのにとても有効だ。
 誰かに嫌われてもモテなくても親から愛されなくても優しくなくてもブサイクでも安月給でもだいたいの人から見下されていても何らかのハンディキャップがあってもいい歳して独身でも低身長でも禿げてても太っててもガリガリでも、自分の性癖を物笑いのネタにされても自分の性指向を嫌悪されたり揶揄されても、自分はそうしたネガティブな反応もされうる存在なのだということを事前に知っていれば、すべてなんの苦もない当たり前なこととなる。
 私が寝床でよく叫んでいた時代にはそれができていなかっただけなのだ。

 当時の私は何に対して怒っていたのか。
 それは私以外のすべてに対してだ。
 私は私がイメージする理想の自分だけを見てそれを自分の本来の姿だと誤認していた。そしてその輝かしいイメージに即した態度を一向に取ろうとしない、周囲のすべての他人に対して常日頃怒り狂っていた。来る日も来る日も自分以外のすべて、この世界すべてに向かって吠え続けて、喉を痛めていた。
 そんな自分のことを今は愛おしく思う。愚かだったのは否定しないけどそのぶん、そこまで生きづらそうだったのによく死なずに耐えてくれたなと言ってやりたい。

 私は今年で47歳になる。私のパートナーは就寝中に私の叫び声で飛び起きることがめっきり少なくなって喜んでいる。自分の安眠が妨げられなくなったから、ではない。彼はずっと私のメンタルのことを心配してきた。だから安穏とした顔ですやすやと眠っている私を見るといいしれないほどの安堵感を覚えるのだそうだ。
 長い回り道をしてきた。それに付き合ってくれた人がいてこそ、今私はここにこうしていられているだけなのかもしれない。ともあれ、ゲイは社会不適合者で病的だと言われても今の私には何ほどのこともない。まあそう思う人もいるよねぇ、と思うだけである。

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