人人

やはり人というのは重要であって、同じ自分としてそこに臨む以上、馬力の上げ下げが存在する

もっと正確にいうなら、ニュートラルな自分で居られるか、もしくはニュートラル以上の自分を演出する必要があるかになる

さらに細かくいうなら、普段の自分を偽る必要があるか、ないかまで考えることになる

前半の飲み会では明らかに自分を偽った
面白くない話をさも興味のあるように聴き、質問をすることで更なる会話を促し、またそれを聴く

一方で、後半の飲み会ではほとんど反射である。自分の立ち位置を理解し、今何を話すべきか、何をするべきかが明瞭である

どちらが気を遣わないかの観点でいえばもちろん後者であるが、前者には成長がつきものである

慣れない人、慣れない話、そこに順応することで自分が拡張される
つまらなさはその試練なわけだ

ところが現実は甘くない
彼に取り入ったところで、彼の話を広げたところで何も生まれないのだ
何も得るものがない
これは残酷なことに明白である

では、この飲み会はつまらない、となった場合どうすればよいか

残念なことにただ耐えるのみなのである
己を主張して、自己のテリトリーを広げ、自分で場を掌握する方法もある

これは自分が喰らわないための有効な手段ではあるが、上司からの評価に怯えることになる

お前自分の話ばっかりじゃん
人の話も聞けよ

これを言われたくなく、かつ退屈でなくするためにはどうすれば良いか

やはり耐え忍ぶばかりである

アレルギーがある
お前とは話したくない、お前とも話したくない
私だって人間だ
人の好き嫌いくらいある

前半ではお酒は2杯ほど
この私がだ
また、私からの会話もほとんどない
この私なのにだ

一方で後半はというと、ほとんど喋ってた
喋ってない時間がないほどにだ

これは何故か

互いを知らないし、知ろうとも思わないからだ
上辺だけの交流の意味のなさを実感した

私は、あなたと、仲良くなりたい
この気持ちがない状態での飲み会は何も生まない
これが明らかになった

仲良くするつもりがないのに、飲み会を通して勝手に仲良くなるということは起こり得ないと感じた。強烈にだ

少なくとも名前を知っている、顔がわかる、何をしてるかも把握している
およそ興味がある対象だからこそ、飲み会の場でさらに近づくことができるし、近づきたいと思う

前半の飲み会でもあった
彼女は自分のことを知っていた
大変ありがたい。我々はもう自己紹介の必要はないわけだ。次に行ける

他はどうか
そもそも仲良くする気がこちらにない
相手からしても、つまらない話を繰り出す時点でおそらくこちらと仲良くなる気はない

仲良くとは、相手を知ることにある
自分の話をして、自分を分かってもらおうとするのは過ちである
お前の篩にかかるつもりはない

共通の話題を探す
このプロセスが1番大切だと思う
私たちはこれから仲良くなろうとしてるよね?という合図が、そこにあると感じるからだ

話がとんとん拍子で進むのはその契約の先だ
高速で我々は各々の特性を感じ取り、次のステップに進む会話を繰り広げる
これがすなわち、楽しいになるわけだ

退屈とは、仲良くなろうとしない両者が、ひたすら自分の話をぶつけ続け、共通の話題が出るのを待つことだ

問題なのは、既に嫌いであることだ
興味がないを通り越して、仲良くする気がそもそもない

この状態で共通の話題が出てくるとどうなるか?
同族嫌悪に近い感情を抱く
共感の対象になるべき事柄を、憎むことになる
すなわち、その会話している相手に前向きな期待がない状態での飲み会は、その時点でアウトなわけだ

そもそも、酒を飲む前、飲んだ後で人格が変わる人はナンセンスだ
、、、いや、ここも結局好き嫌いだ
肯定的な対象が、酒を飲んで人格が変わっても困らない。むしろ楽しい

いつもおとなしいクソが、酒の席でだけ大声で喋り、同意を求めてきて、いらない追加の酒を頼む。煩わしい

何故か
何故こうも凝り固まった嫌悪に左右されてしまうのか

ルッキズムはある
見てくれはいいに越したことはない
表立って、そうでなくとも、あるいは裏打ちされるイケてる感が対象にないと仲良くなれない
私はそういう人間だ

自分の得意なことを自覚している。でも嵩にかけない
自分の好きなことを自覚している。それを嬉しそうに話す
あなたに、興味がある。それを言葉にして伝える

これだけのことだ
これだけのことができない人間のなんと多いことか

一定の年齢を越えた女性をババアと呼び、嫌いなタバコの銘柄を羅列し、特定の映画をクソ映画と言う

長くなったがテメーは死ね

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