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もやもやさんぽ

僕は散歩をするのが楽しみだったりする。アイデアを考えるのに詰まったりしたら、ふらりと出掛ける。また一日ずっと事務所で作業しているときなんかも、夕方になると外の空気が吸いたくなる。そんなときは自転車で少しだけ遠くまで走ってみたりする。

京都の町は碁盤の目に成っているので、どの通りも同じように見えるけど、いつもと違う道を通ると全然違う景色だったり、意外なお店を発見したりと楽しいことが割とあるので、寄り道も散歩も良いものだ。歩く方がゆっくりと確実に発見できるけど。

人に言えるような趣味がない僕にとっては、唯一の趣味と言うか楽しみが散歩なのかも知れない。

そんな僕の友達には、色んな趣味を持つ人がいる。プラモデルを作る人もいれば、金継ぎをする人、また生け花だったり、写真を撮ることだったりする。そのどれもが皆楽しそうであるけれど、僕がそのどれかをやってみたいとはあまり思わなかったりもする。

趣味の違う友達とも仲良くしてもらってるし、彼らの趣味もよく分かるし、SNSなんかで写真がなアップされてたりすると、もちろん「いいね」したり、時にはコメントしたりもする。また逆に僕の投稿や意見にも反応してくれる。

僕が散歩好きだから、他の人に散歩の良さなんかを説明したり薦めたりする事はあっても強要はしないし、他の人の趣味についても「良い趣味をお持ちですね」って位の感覚。もし「散歩以外の趣味は認めない」なんて言ったらみんなは変に思うに違いない。ということも、普通の人なら理解できるだろうと思う。

だけどこの簡単なことを、事が政治や思想になると一気に分からなくなる人が多かったりする。多様性とか認め合いとか言いながら、自分の信じるもの以外は認めないし、なんなら違う意見を排除したり、攻撃したりする人までいる。ちょっと気持ち悪い。

趣味と政治や思想を同じに見るのは少し違う気もするけど、自分以外の人の意見や考えを認めるという意味では、根は同じなんじゃないかと思う。正義や差別といった誰もが否定し難い言葉を振りかざし、言ったもの勝ちの理論や考えの押し付け、他者の排除。レッテル貼りなんかは、差別のラベリングだし、差別そのものだと言うことに気づくべきだと思う。

何十年も変わらないこのやり方に辟易とするけれど、寛容を求めながら極めて不寛容な世の中に息が詰まりそうな人も多いはず。

それはダメだ、これは良いみたいなどちらか二つにひとつではなくて、何をしなければならないのかを考えて、そのためにすべきことを話し合うのが大切なんじゃないのかな。

基地は作らせないとか、疑惑は深まったとか、誠意がないとか、反省がないとかいうのは、それらを言ってる人たちが別の意見を聞く気がなく、話し合う気がないんだから解決のしようもない気がするんだな。。

という、モヤモヤした気持ちを分かってくれる人も居るだろうし、分からないという人も居るだろうし、それぞれ意見もあるというのが健全で、百人居れば百通りの考えや気持ちがあるのも当たり前だよねってことを、まずは整理しておきたかったのだ。