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批評家は芸術の寄生虫だ!

 批評家は芸術の寄生虫だ!
 こんなこと言われて、ムキになって“そんなことはない!”と反論しだす批評家が多いこと多いこと。マジに落胆するよ。
 いやさ、批評家っていうのはむしろ“ふむ、まあそういう意見もありますね。ですけど、例えばEuhaplorchis californiensisという寄生虫は魚の神経系を操作するような脳内物質をバラ撒き、その魚の行動を操作することができるという驚くべき生態がありましてね……”とか言える存在なんじゃないのか?
 つまりは“寄生虫=単純”という一般に流通する固定観念をひっくり返すというか、ド派手にちゃぶ台返しできる存在こそが批評家なんじゃあないのか?
 まあ結局俺は“正に自分は寄生虫です!”と思える人間こそが批評家であってほしいと思ってるってことだな。
 そして俺は、自分も映画批評を色々書くなかで、何やかんやいってこう思っている。
 批評家は芸術の寄生虫です、何故ならそれがなければ生きていけないからですと。
 だがね、これも批評家はとんでもなしにクソな存在とか言ってるわけではない。
 この“寄生虫”っていう種、じゃあ他種に劣った生き方をしているかといえば、さっき書いたEuhaplorchis californiensisとか、広東住血線虫とかハリガネムシとかこの名前をググって色々調べてもらいたい。何だこの生態は!?と、その生き様にビビるやつばっかだ。寄生虫ってのは、正に寄生虫にしか成せない驚くべき生き方をしている。
 こういう寄生虫の凄さを書いてる文章読んでると思うんだよ。俺たち批評家は寄生虫であることを誇りに思い、寄生虫に恥じない生き方をすべきなんだと。
 俺は済東鉄腸という筆名を使って、曲がりなりにも数年にもわたって“映画批評家”として活動してきたんだけども、その最中に彼ら彼女らの多くが金と知名度のためにしか書かない様を見てきた。多くは語らんが、本当に浅ましいもんだよ。しかもTwitterとかFilmarksとかで、自分が書きたいから書いてる人々の文章を読んで嘲笑うわけだね。
 そのあまりの浅ましさに、同じ存在として扱われたくないから“映画批評家”っていうのを名乗るの辞めるかと思ったことも多々ある。自分の文章は“批評”じゃなくて“紹介文”です、だから自分は“映画紹介者”です、みたいな感じで。
 なんだが、こう、一般の人々が芸術の批評家を揶揄するにあたって“批評家は芸術の寄生虫”という悪口を言うことが時折ある。これに対して最初はまあ俺も反発することもあった。
 しかし科学書を読んだりするなかで、寄生虫がいかに驚くべき生き方をしてるかを知った。マジですげえよ、寄生虫って。こうなると不思議なもんで、寄生虫と揶揄される存在であることに光栄さをすら覚えて、むしろその寄生虫たる“批評家”ってやつを名乗り続けたく思ってしまうんだ。
 こういう過程を経て思ったのはだ、俺もそうだけどヒトっていう種そのものが“寄生”という行為をあまりにナメているっていうことだ。
 俺たちが“寄生”という言葉を使って、ある対象を揶揄しようとしている時、果たして寄生虫が化学物質を撒き散らして宿主の神経系をも操作しようとしたり、もし宿主が死ぬのなら自身も一蓮托生で死んでいったりっていう、その徹底した生き様に、少しでも思いを馳せたことはあるのかと。俺たちは、寄生虫の寄生という行為にそこまでの重みがあると考えたことはあるのかと。
 ヒト界隈においては“寄生生物は寄生するしか能がない(笑)”みたいな浅い理解が広まってる、これは正直全く否定できない。
 だから“批評家は芸術の寄生虫”と揶揄された批評家が、この固定観念に揺さぶられてしまい、少し感情的になり、時にはムキになって反論しようとする気持ちは分かる。先に書いた通り、俺も最初はそうだった。これはヒトの弱さなんだろう。
 だけども、そこで立ち止まり理性を働かせたうえで“寄生虫”や“寄生”がそんな単純なものか?と考える。こういうことができない、つまりはある概念の価値を転倒させることのできない人を本当に批評家って言っていいんだろうか?と今はそう思ったりする。
 “批評家は芸術の寄生虫”と言われて、それをある程度認めることもできず、不愉快な気分を覚える批評家というのは、結局頭がとても良い人文的人間なんだろうって思える。頭がとても良いがゆえに、人文学に籠りきりで自然科学など他の学問分野など知る気もなく、自分が何でも知っているのだという驕り、つまりは知の無知ってやつを自覚する気もない人なのだなと思ったりする。首都圏に住んでて何らかの芸術の批評家を自負するなら、少なくとも、目黒寄生虫館とかに行って“寄生虫”の凄さを知る必要があると思ったりするよ、俺はね。
 それから俺もついつい使っていたんだけども“寄生をするもの”という意味で、しかもかなり多くの場合悪口として“寄生虫”という言葉を多用するのは、虫に悪い意味を押しつけすぎだし、虫以外の寄生して生きる存在を無視していて礼を失するよなと思った。
 やっぱり“寄生生物”という言葉こそが、可能な限り多くの種を包括する言葉として適切だよなと。それから今後への課題として、日本語の語彙/比喩における“虫”の悪口としての使い方、再考の余地を感じたりした。“虫けら”とか“クソムシ”とか、こういうのがヒトに対する悪口として機能してしまう実情は虫に対してちょい失礼だよな。日本語以外では一体どういう状況、広がっているんだろうね?
 まあ結局何が言いたいかっていえば、映画批評家という名の寄生虫である済東鉄腸を今後とも宜しくお願いします!ということだね。

(ヘッダー画像はニハイチュウのWIkipediaページから引用)

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