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アニメコジコジ感想 第1話「コジコジはコジコジ」

1997年10月4日放送 脚本:さくらももこ

全100話からなるアニメ「コジコジ」の記念すべき第1話。
スタートということもあり世界設定を提供する必要があり情報過多でありながらも、早くもその哲学的要素が詰め込まれており内容が濃すぎる回。

前提知識

第55話までがさくらももこ脚本、その後は脚本監修をさくらももこが行い、本人含む複数の脚本家によってアニメが製作された。

さくらももこの代表作としては誰もが知っているであろう「ちびまる子ちゃん」があり、私は元々ちびまる子ちゃんのファンであった。ちびまる子ちゃんは1990年‐1992年にかけて原画風の絵柄の第1期アニメが、そして休止期間を挟み1995年から第2期アニメが現在に至るまで放送されている。

1994年から1999年にかけ、さくらももこは出産、育児、離婚といったライフステージにおける大きな岐路に立っていたように(話だけ聞けば)思われ、実際にりぼん1995年2月号には伝説の封印回、第98話「まる子、夢について考える」が収載されており、混乱している様子が窺える。
そのような中で漫画「コジコジ」は主に1994-1997年に製作された。彼女の中から溢れ出さんばかりの才能に、(本人が望んだかはともかくとして)環境負荷がかかり生まれた至高の傑作であると私は想像している。
アニメ「コジコジ」は1997年10月4日から1999年9月25日にかけて放送されている。すなわち、コジコジとちびまる子ちゃんのアニメは同時並行で製作されていたことになる。これだけでも多忙が容易に予測できそうであるが、実際に1999年からさくらももこは両作品のアニメ脚本を部分的に他の脚本家に委ねることになっている。

同時期の両作品を鑑賞すると、特定の特徴を持ったキャラクター(キャラの濃いヤツ)のその特徴をネタにするといった作風が共通して目立っている。
もちろんその中には傾向が似ているキャラが両世界に存在しており、ちびまる子ちゃんとコジコジには一種のパラレルワールドが展開されている点も魅力である。

あらすじ

「コジコジはメルヘンの国に住んでいます。」

コジコジが何者であるかは特に説明がなく始まる。謎の歌を歌いながら道を歩きミミズと話す。

シーンは学校”3年インコ組(セキセイ)”に移り、先生が勉強することの意義について語ろうとする。
メルヘンの国ではミッキーマウスやドラえもんのようにキャラクターとして人気を得ることが重要で、そのために勉強が必要であると先生は説く。
しかしコジコジは勉強なんて1度もしたことがないようである。
事実、返却されたテストの点数は自分の名前を書き間違え-5点。
職員室に呼び出され、

先生「こんなことではこれから先、生きていけないぞ」

と叱咤されるも

コジコジ「名前が書けなくても生きてられるよ」
「盗みや殺しやサギなんかしてないよ、遊んで食べて寝てるだけだよ、何が悪いの?」

と煽っていき先生は爆発。だが、全く反省の様子は見せない。
そして、

先生「立派なメルヘン者になりたくないのか!?」

コジコジ「先生、いまおなかすいたでしょ?大きい声出したから」

のやり取りで先生は自分を見失う。
せめて、ということで

先生「コジコジ、君は将来いったい何になりたいんだ?それだけでも先生に教えてくれ、な?」

コジコジ「コジコジだよ、コジコジは生まれた時からずーっと将来までコジコジはコジコジだよ」

この言葉に先生だけでなく、外で様子を見ていた次郎、コロ助も衝撃を受ける。特に影響を受けた次郎は同じやり取りを母ちゃんにするものの、、、ビンタで瞬く間に撃沈。
この、メルヘンなのに現実的な場面での「あ、口ん中切れてる、痛ぇ」が秀逸。

最後にコジコジが夜空を飛び回り、フクロウと会話して寝に帰る(家はないが)場面で終了。

感想

「コジコジはメルヘンの国に住んでいます。」

コジコジが何者であるかは特に説明がなく始まる。謎の歌を歌いながら道を歩きミミズと話す。圧倒的に何の意味もないイントロ。ここからコジコジの世界観の説明はすでに始まっている。
そう、コジコジという存在の重要なポイントとして、「徹底した無意味」と「非ラベリング」がある。

高度経済成長期に至るまで、日本に限らず世界では人としてのあるべき姿のようなものがもう世界から提示されており、それに従って生きるようなソリッドな社会が広がっていたように思う。女性は主婦として家を支える。男性は仕事につき、定年まで同じ職場で職務を全うする。全員がそうではないものの、ある程度の「道」があってそれに従わなければならない、逆に言えば従う能力を持って育つことができればそれに従っていることで社会に所属しているという安心感を得る方法があったように思える。
そのような「道」「正解」のようなものが瓦解していきリキッドな社会(Z.Bauman)となっていく中で(最近で言えば「多様性」と表現されるようなもの)こうあれば所属、承認を確認できるという振る舞いが形を変えて人々に求められているような印象を受ける。HSPなどの性格傾向についてのラベリングなどが話題にあがるようになるのもそういった側面が影響しているのではなかろうか。
そのように自分を所属(ラベリング)させないと生じる不安のアンチテーゼとしてコジコジの「非ラベリング」された存在は強烈なメッセージ性を持つ。

コジコジの「徹底的な無意味」像についていえばニーチェによるニヒリズムへの解釈を体現したようなものである。私たちが生きているこの世界には何の意味もないかもしれない、というかそもそも本体としての世界は存在していないかもしれない。(M.Gabriel)メルヘンの国はその無意味さをデフォルメした世界で、その中でもコジコジは生きている。生きることに意味を求めるのではなく、生きることから意味が生まれてくる、世界が生成されること、が展開されている。

これらはその世界設定と最初のシーンから既に提示されているが、第1話の終盤に
「コジコジだよ、コジコジは生まれた時からずーっと将来までコジコジはコジコジだよ」
という確固たるメッセージとしてまとめあげられる。

原作漫画の第1話でもあり、「コジコジ」における世界観や価値観が提示される回である。漫画においてはアニメならではの空気感や、間のようなものを構築しづらいため、上述太字のコジコジのセリフたちが名言のように取り上げられて先行してしまう。
ただ、これはあくまでわかりやすく明文化しているだけで、特にアニメは構築全体からその観点が芯にあることを常にメッセージとして発し続けており、それができているということがアニメ「コジコジ」を素晴らしいとするゆえんである。

キャラクター関連

キャラクターについては小出しにして徐々に解説を重ねていこうと思う。

ハレハレ君

お天気の神様で下駄を蹴り上げることで天気を占うことができる(無風時)。だが実際はメルヘンの国はほぼ晴れなので彼がそういう意味で役立つかは謎である。今後ジョニーとの関係性については記述予定。

今回は、照れると口をもごもごさせるものの笑わないことをみんなに指摘される。このディスってもないが決して誉めているわけでもない何とも言えないがよく起こりうる空気感を作り出すことにかけてさくらももこは天才的であり、この場面が私がさくらももこ作品を好む理由を凝縮したエッセンスだと感じた。

やかん君:

やかんの顔をして胴体が人間の生き物。クラスメートのペロちゃんに恋をしており、ペロちゃんのことを意識すると沸騰してお茶が沸く。
個人的には「コジコジ」における相当重要なキャラクターの1人。
やかん君のエピソードもこれから頻出するので今後記述。


その他好きなポイント

3年インコ組(セキセイ) 
セキセイインコ組ではなくインコ組(セキセイ)
そもそもなぜインコ組なのか

「ミッキーマウスはここでは見せることができない、色々な事情があるのだ」→ハレハレ君「ウォルトディズニーカンパニーは厳しいからね」

うさこメタ風発言「ここはメルヘンでファンタジーの国なのにね」

コジコジが-5点を取ったことに対して帰宅しながら淡々と会話する正月君、カメ吉、やかん君

「コジコジはコジコジだよ」に衝撃を受けているコロ助、次郎の脇から何の脈絡もなく登場し何の脈絡もなくスヌーピーのサイン会の話をして通り過ぎるゲランとドーデス。

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