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#012 Twitterで話題?!『令和ちゃん』から読み解く今も昔も変わらない日本人の自然観 ~後編~ 災害死史観と紛争死史観


こんにちは、GreenLushです。

前回Twitter等のSNSで時折話題に上がる『令和ちゃん』について取り上げました。

日本人の自然観を的確に捉え表現した事象であると共に、それは昔から変わらないことであって、非常に興味深い民族性であると述べました。

今回は、そんな我々の自然観がどのような経緯によってもたらされたかということと、それが我々の死生観にどうような影響を与えているかということについて考えてみたいと思います。

そして、それが現在の世界において指導力を発揮しているユーラシアの国々の価値観と根本的に異なるという事実を踏まえた上で、私なりの考えを記したいと思います。

災害死史観と紛争死史観

まず、我々日本人の自然観、死生観について、どのような特徴があるか改めて考えてみる際、適格且つ、圧倒的な説得力で論じている書籍があるので紹介します。

元国土交通省官僚、現在は全日本建築技術協会会長、国土学総合研究所所長である大石久和氏の下記の書籍です。

・「国土学」が解き明かす日本の再興 ― 紛争死史観と災害死史観の視点から (海竜社) 大石久和(著)

「国土学」が解き明かす日本の再興 ― 紛争死史観と災害死史観の視点から (経営科学出版) | 大石 久和 |本 | 通販 | Amazon


・[新版]国土が日本人の謎を解く(産経新聞出版) 大石久和(著)

[新版]国土が日本人の謎を解く (産経セレクト S 25) | 大石 久和 |本 | 通販 | Amazon


どちらの書籍も、『国土』をテーマにしたものです。

国土がどういうものであるかによって、その国の国民の価値観等の基本的な人間性を形作り、それを元に『国民性』が形成されることで政治、経済活動が運営されていくという内容を日本とユーラシアとで対比的に記しており、非常に読みやすく説得力のある書籍となっています。

大石氏の提唱する『国土学』ですが、これは一見地政学に近いように思われるかもしれませんが、地政学とは異なります。

地政学は国家における地形や立地、周辺環境がその国の政治、経済、軍事にどのような影響を及ぼすかを考える学問ですが、本書で記される国土学は、もう少し個々の人間の価値観や精神性に迫ったものだと理解しています。

では、国土学をベースにして考えた際、我々日本人とユーラシアの大陸国家との間では、具体的にどのような違いがあるのでしょうか。

「国土学」が解き明かす日本の再興の中から、一部抜粋して引用致します。

われわれの考え方と、ユーラシア人(ヨーロッパ人や中国人)との決定的な違いとは何か。それは人の死、つまり愛する者の死に出会う局面がわれわれと彼らとではまったく違っていることである。日本では、自然災害で多くの人間が死んでいった。
~中略~
日本人の死は自然災害による死であるので、「災害死史観」とでもいうべき考え方をわれわれは身につけているのである。それは、愛する者の死に際して恨む相手がいないということである。
~中略~
一方、ユーラシアでは、紛争で多くの人が死んでいった。愛するわが子の殺害に出会った父母はいつか死んだ者のために相手に復讐するといった誓いを立てることになる。また、相手を恨み抜くことが、死んだ者に対して示すべき態度ということになる。恨み抜くことと、復讐の誓いを立てるという行動の約束が死の受容を可能とするのである。したがって、それがなければ死を受け止めることができない。
~中略~
人は愛する者の死に直面する時に最も深く心を揺さぶられる。そして最も深くこのようなことが二度とあってはならないと真剣に考える。感覚と思考は愛する者の死に直面することによって磨かれていくのだ。これがユーラシア人が獲得してきた「紛争死史観」というものである。

「国土学」が解き明かす日本の再興 ― 紛争死史観と災害死史観の視点から (海竜社) 大石久和(著)


大石氏によると、歴史的背景、地理的背景によって、日本人は『災害死史観』を持ち、大陸国家は『紛争死史観』がベースであると言います。

災害死史観では人の死というもの恨みようがなく、どうしようもない、仕方がないという考えが根底にあると言います。

一方で、大陸国家の彼らは紛争死史観によって、すべての事象には理由があり、創意工夫によってある程度防ぐ事が可能であると考えると言います。

それは”人の死”のみならず”無機物の死””に対しても同じであると言えます。
つまり、日本的な考えでは、例えば城や住居や橋も人の死と同様に、自然災害によって無情にも破壊され崩れ去って行きます。

しかし大陸国家では日本と比較し圧倒的に地震、台風、噴火等の自然災害が少ない為、城や住居や橋が破壊される原因はやはり紛争にあります。

これは原因を突き止め、予兆を捉え、戦略を練り、戦術を変える事で防ぐ事が可能です。

つまり物事に対して真剣に考える事である一定程度の事象は何とでもなり得ることを、彼らは長い歴史の中で心得ているのです。※実際に何とかなるかは別として、嗜好のプロセスがそうであると言えます。

翻ってもう一度我が国を考えてみた時、”どうしても何ともならない事がある”という現実が長い歴史の中で染み着いています。

故に、自然を敬い、畏敬の念を感じ、自然の中で抗わずに共に暮らす自然観が形成されたと言えます。したがって時に猛威を振るってくる自然災害に対しても前編で紹介した『令和ちゃん』などの自然現象を擬人化することで笑い飛ばす様子も納得できます。

紛争は自然災害か?

流々、日本と大陸国家との違いを述べてきましたが、ここからは私の意見になります。

私が思うに、グローバリゼーションが加速する昨今において、この違いを念頭に置くことが極めて重要であると考えます。

この違いが頭にあるかないかで我々の思考や判断は大きく異なってくると言えます。なぜなら、現在の世界において指導力を発揮しているほとんどの国はユーラシアをルーツとする国々であるため、紛争死史観が根底にあります。

つまり、我々と価値観が根本的に異なるのです。

同じ現象について両者が見たとき、導かれる結論は全く異なる(180°逆だと言ってもいい程)と言ってもいいと思います。

繰り返しますが、あえて極端に言えば、”すべて『仕方がない』で片づけられる”『災害死史観』と、”すべての事象には理由があり、人の力で変えることができる”と考える『災害死史観』では物事の捉え方が変わってきてしまいます。

 <我々の自然災害史観の場合>
 偶然たまたま、いつ起こるかわからない、自分たちにはどうしようもできない

 <大陸国家の戦争死史観の場合>
 物事の現象には背景と直接的な原因があり、予兆があり、ある程度予測可能、過去の歴史から対策を思考し戦略と具体的な戦術が構築できる


つい先日、アメリカ下院議長である民主党ナンシー・ペロシ議長の訪台をきっかけに中台の緊張状態が一気に高まり、中国は我が国のEEZに弾道ミサイルを5発打ち込みました。

この状況をもって周囲の反応をみてみると、何かの自然災害だと勘違いしていないか、と思ってしまいます。

これは、たまたま風に乗って誤って落下したのではなく、明らかに、明確な意思と意図をもってEEZ内に打ち込んでいると思わないといけないと思います。

もちろんこれだけではないです。

頻繁に発射される北朝鮮の弾道ミサイルもそうですし、異国の戦争やテロも同様です。何か、どこか遠くの場所で台風の被害が出たとか、土砂崩れが発生した時のニュースを見たときの感覚に近いような、「大変だけどどうしようもない」そんなような、どこか諦めの雰囲気を強く感じます。私だけでしょうか。

以前、YouTube番組の『チャンネル桜 闘論!倒論!討論!』にて経済評論家の三橋貴明氏が述べていた事が非常に印象的でした。

私もその通りだなと同感したのは、ロシアのウクライナ侵攻に対して言及についてです。

侵攻直後、早速日本から復興募金の協力が上がった際の事に対して、”戦争を何かの自然災害だと勘違いしていないか?”と述べられており、私もまさしくその通りだと思いました。

↓↓↓↓リンクを張りますのでご覧ください↓↓↓↓


中台の緊張状態が高まる中、次の紛争は確実に我が国に忍び寄ってきています。必ずしも平和と安寧を望む訳ではないグロテスクな世界の実体を見たときに、我々が災害死史観と紛争死史観を区別した上で、世界の大半が紛争死史観で政治・経済・軍事を運営している事を理解して世の中を見る事が大事だと思います。

今日はここまでです。
最後までお読み下さりありがとうございました。


終わり。

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