魔境とか、審神?と言い出す辺り

 魔境、いわゆるオカルトで避けるべき扱いになっている物ですが、そもそも魔境って言葉と概念が何処から来たのか疑う回になっています。

 大本として、禅では全ての座禅中に浮かんでくるイメージが良くない物であり「鬼に逢うては鬼を斬る、仏に逢えば仏を斬る」という合言葉に沿って全てを無視するそうな・・この合言葉だけが一人歩きしているならば、朝晩師匠の坊主に逢っているのだろうからその師匠を斬らない理由はナニカと問い詰めてみたくなりますね。

 イメージを使う瞑想体系ではないので、現れた物全てを斬り捨てるというのはそれはそれで良いのかもしれないけれども

その用語である「魔境」という言葉自体が、自我が拡大していて自分以外を認めない状況を指しているのか、魔物に魅入られた?状態を指しているのか西洋魔術のクリフォトも同じような問題を抱えていると思っています

 元々、禅の用語として「魔境」があるのに、禅では無いあれこれな体系にハマりながら相手を魔境と言い表すってそれ根っこから矛盾していると思うんですが、そもそも禅で言うなら仏も鬼も斬り捨てないその自分自身もアウトだしオカルティックな事に手を出している自分もアウトなんじゃないんでしょうかね?けどソイツは魔境で自分は違うと言い張る自分は何者で、どういう物に立脚しているんでしょうか?

 もちろん、制御不能だったり明らかに説明が出来ないのに自分は達人だと言い出す人間は幾らでもいるので、それを魔境と言いたくなるのもよっくわかりますしクリフォトの説明としてはそれは正しいのかもわかんないっすね。

 審神もそうで、物の本によると「熟練した審神に依れば邪神や悪霊の言う事は何処かがおかしいので、冷静に矛盾を突いて行けば正体を看破出来る」らしいですが、んじゃ敵が冷静でおかしいこと言わなかった場合は見抜けないんですがそれはどうなるんだっていう。

 あんまりまとめになっていない気もしますが、魔境や審神したのだという言葉等、気に食わない相手を俺が判断してやったのだという一方的判断評価としてしか機能していないんじゃないか?という感想です

議論不能でつよつよ幻覚茶飲ませて、バッドに入っている人を居ない事にしながら「あの人は自分が何を言っているか解っていないのです」と裁判所でのたまうようなお方を魔境と呼ぶのかどうかは・・まあなんというか・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?