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感覚で使われている言葉に向き合おうシリーズ

※シリーズ化するかどうかわからないのでナンバリングをしません(笑)

今までもきっかけがあればお話してきましたが、私は感覚だけで話すことを嫌っております。「なんかいい」みたいに明らかに漠然とした表現は言うまでもありませんが、「美味しい」「品質がいい」のように指標があるようでない表現も嫌いですし、なるべく避けるようにもしています(もし使うならば明確に意味するところを伝えるようにしています)。

そもそもなぜ私がそのような表現を嫌うかといいますと、感覚での話は意思疎通のエラーに繋がり、豊かな生活の障壁になるリスクを伴うからです。具体例を挙げるならば、例えば100g5,000円もするヒレステーキ肉を買った人が「高かったけどその分美味しかったよ」と勧めてくるとします。そして「へぇ、じゃあ今度ボーナスが出たら食べてみようかな」と考えて、実際に買ってみたとします。しかし、その人が普段はオイリーなバラ肉を好んで食べているとすると、もしかしたら「あぁ、もっとガッツリした味わいが好きなんだよなぁ」とガッカリするかもしれません。そして「あんまり美味しくなかったよ」なんて報告して「あぁ、良い肉の味がわからないんだねw」と言われてしまうかもしれません。

この話の中で「美味しい」「ガッツリした味わい」「良い肉の味」という表現は、いずれも感覚的なものです。最初に「美味しい」ではなく「油が少なく軽い食べ口ながら、濃厚な旨味が口の中に広がる味わい」と具体的に説明していれば、好みに合わないリスクを犯すこともなく、5,000円で別の楽しみを得られたかもしれません。あるいは、挑戦するだけして、「こういう味もあるのか」とポジティブに知るキッカケにできたかもしれません。いずれにしても、あらかじめ感覚的じゃない情報を得る機会がある方が、自分の選択に納得がいく可能性が高まるのは事実です。

前置きが長くなりましたが(いつものことですが(笑))、具体的に私が向き合っていただきたい「感覚用語」についてお話したいと思います(前段として、私のnoteでは「美味しい」と「品質(コーヒーに関する)」については既出ですので、併せてご覧いただければ幸いです)。

今回は「普通」についてです。

「普通」を辞書で引きますと「いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持ってはいないさま。」とでてきます。堅苦しいですが、おそらく多くの方のイメージに近いのではないでしょうか。私も「普通ってどういう意味?」と聞かれれば「ありふれているくらいの意味じゃない?」と答えると思います。

しかし、実際の日常生活においては、万人が共通認識を持てる「普通」なんてありません。あくまでも「家族内での」「地域内での」「クラス内での」といった、限定的な範囲におけるものだと思います。それを、他の範囲においても決めつけるからこそ、揉め事の原因になってしまうのです。

あるいは、その限定的な範囲ですらないかもしれません。家族内でも、兄と弟では認識が違うこともありえます。むしろ、よほど気が合う同士でなければ、「普通」の認識を共有するのは非常に難しいです。
上述の、限定的な範囲における「普通」とは、「ルール」と読み替えてもいいくらいのものだったりします。それはもはや「普通」というにはあまりに都合が良すぎますが…

社会性動物としての人間は、帰属する範囲内での「普通」を積極的に認識し、その通りに実行することを半ば義務付けられています。それを人は「空気を読む」と表現し、「空気が読めない」人は「普通じゃない」として迫害されます。

共通した「普通」の認識というのは、チームで何かを達成するためには重要…というよりも有効です。いちいち意思疎通の確認をしなくても議論が進行するのは、円滑なミッションの達成には役に立ちます。

ただ、そうでなければ、自分の中の「普通」を他人に期待するのは、メリットよりもリスクのほうが大きいといわざるを得ません。個人、あるいは団体が「普通こうするでしょ」と感じている時、一方も「普通こうしないでしょ」と感じているものです(ニーチェっぽいですが(笑))。

ここまでお話した理由から、「普通」という単語は原則使用しないようにするのが賢明です。それよりも「自分はこういうものだと認識している」とはっきり伝える意思を持つほうが、より重要だと私は思います。

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