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「悪いことをしている」のが悪いという感覚

突然ですが、私は山本ゆりさんというブロガーの方が好きで、よく記事を読みにいったり、本も買ったりしています。特にエッセイ本「syunkonカフェ雑記 ~クリームシチュウはごはんにあうか否かなど~」は随所にクスっと来るポイントが散りばめられており、立ち読みして即決で買ってしまったほどでした(笑)
有名な方なので私が紹介するまでもないかもしれませんが、よろしければぜひチェックしてみてください(^^)

で。私がかなり感銘を受けた記事の一つに「街で遭遇した小学生の言い合いについて」があります。この記事の中で「いじめっこ=恥ずかしいという図になるといいな」という旨のお話があるのですが、これ、本当に共感できるんですよね。

要するに、悪いこと=悪いことという世の中になるといいな、って話です。

例えば、いじめについても「いじめは悪いこと」という前置きがありつつ「そこにある理由を汲み取ることも大切」と考えられる場面があります。「いじめられる側にも問題がある」という言い分は炎上しやすいですが、実際のいじめの現場ではそうやって言いくるめられるいじめられっ子もいるのではないでしょうか(私が小学校のときはそうでした(笑))。

もちろん、いじめる側が100%悪いというのは傲慢です。あいつがいじめている、じゃああいつが全部悪い、といった安直な考えはよろしくありません。いじめを行う原因が必ずあり、それの解決策として「いじめ」を選択せざるを得なかったのかもしれません。

しかし、そもそも論として「いじめ=恥ずかしい」という図式があれば、「いじめ」以外の解決策を何とか導き出そうとするのではないでしょうか。そのために人間の「知恵」と「羞恥心」はあり、ひいてはそこを指導するのが「学校」であるべきなのではないでしょうか。そもそも学校という場は(ry

はい、話が逸れそうになったのでやめます(笑)

ともあれ、悪いことをしっかりと悪いこととして認識することは、非常に重要な倫理観だと思います。「別にこのくらいよくね?」「みんなやってる」「楽しいじゃん」くらいの気持ちでやってしまうのは、その認識が弱いからです。「バレなきゃ大丈夫」とはいっても、必ず「自分」にはバレます。その「自分」が恥ずかしいと思えれば、自然とブレーキもかかります。

これは「いじめ」や「暴力」「詐欺」など、犯罪に直結することだけではありません。「手を抜く」「ルールを破る」などの、日常にありふれた「悪いこと」でも同様です。

「わるいこと」「してはいけないこと」について、まず「わるい」「してはいけない」とただ思ってブレーキをかける倫理観は、大切に意識していきたいと思います。

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