見出し画像

良きモノ(2) マイセン(Meissen porcelain)_食器

良きモノ図鑑

ブログ全体が良きモノの図鑑です。ジャンルによってマガジンを設けています。今回は食器。



マイセン(Meissen porcelain)

名前:マイセン(Meissen porcelain)
国:ドイツ
創業:1710年

マイセンは、ヨーロッパ初の硬磁器(ハードペースト)の造り手。


1710年に設立されたドイツの名窯、マイセン

世界的に有名な食器のラグジュアリーブランドのひとつ、マイセン。その始まりは、東インド会社がヨーロッパに持ち込んだ中国や日本の美しき陶磁器でした。


日本の柿右衛門らが作る伊万里焼が、東インド会社を経てヨーロッパに伝わり、自国でも美しい陶磁器を作れ!という機運が高まったのが経緯です。デンマークのロイヤルコペンハーゲンもそんな経緯で生まれています。


柿右衛門

柿右衛門様式

酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)は、江戸時代、肥前国(佐賀県)有田の陶芸家、および代々その後継者が襲名する名称。

朝鮮陶工の李参平(りさんぺい:朝鮮出身の陶工で、有田焼/伊万里焼の生みの親)により良質の陶土が発見されたため現在の佐賀県西松浦郡有田町に移住した酒井田円西が、息子である喜三右衛門とともに陶器や白磁、染付などの磁器を製作していましたが、やがて17世紀前半に喜三右衛門は赤絵(あかえ:赤を主調とする上絵付のある色絵)磁器の焼成に成功し、柿右衛門を名乗りました。

初代柿右衛門は、乳白色の地肌に赤色系の上絵を焼き付けるという柿右衛門様式と呼ばれる磁器の作風を確立し、その作品は、ヨーロッパなどにも輸出されマイセン窯などでは模倣されました。また、磁器の発祥地である中国の景徳鎮窯にも影響を与え、同様の作品が作られ、やはりヨーロッパに輸出されました。四代までの間が初期柿右衛門とされています。

続く17世紀後半から18世紀前半にかけての約90年間、五代(1660年 - 1691年)から七代までが中期柿右衛門。五代は技量が芳しくなかったために、1685年を以って鍋島藩からの恒常的な発注が差し止められました。六代(1690年 - 1735年)は、意匠・細工に優れた叔父の渋右衛門にも助けられ、食器類のほか花器、香炉など様々な磁器製品を高い水準で量産することに成功したため、中興の祖とされています。また1724年には嘆願書を藩に提出し、臨時の発注の一部が、酒井田家に用命されることとなりました。この一方で、高い技術が要されることなどから七代(1711年 - 1764年)以降に濁手(乳白色の地肌)の作品は中絶してしまいます。

18世紀前半から19世紀にかけての八代(1734年 - 1781年)、九代(1776年 - 1836年)と十代(1805年 - 1860年)の期間は後期柿右衛門とされ、主に染付(そめつけ:白色の胎土で成形した素地の上に酸化コバルトを主とした絵の具で模様を絵付し、その上に透明釉をかけて高温焼成した陶磁器。おもに磁器で、模様は藍青色に発色します)の磁器を製作しました。七代から八代にかけては四角の中に福の字が入った「角福」と呼ぶマークを施したものが多くあります。これは明清の陶磁器に元々あったものでした。

近代以降では、十一代(1839年 - 1916年、1860年に襲名)は「角福」のマークの商標登録の可否などを争う訴訟を起こして経済的に困窮しましたが、海外にも積極的な出品を行ないました。1919年には出資する事業家と共同で十二代が柿右衛門合資会社を設立し、赤絵技術と「角福」銘を供与しました。しかし美術品の制作を志向する十二代(1878年 - 1963年)は会社と経営方針が合わず、1928年に関係を解消しています。以降それぞれが「柿右衛門」作品を制作しましたが、1969年に和解し、その後合資会社は名義を使用していません。十二代と十三代(1906年 - 1982年)は1947年頃から濁手の復活を目標とし、1953年に初めて濁手の作品を発表しました。濁手の製作技術は、1955年に国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択され、1971年には重要無形文化財に指定されています。

柿右衛門様式

柿右衛門様式は、主に大和絵的な花鳥図などを題材として暖色系の色彩で描かれ、非対称で乳白色の余白が豊かな構図が特徴です。上絵の色には赤・黄・緑、そして青・紫・金などが用いられています。また、器の口縁に「口銹」と言われる銹釉が施されている例も多くりあります。同じ有田焼でも、緻密な作風の鍋島様式や寒色系で余白の少ない古九谷様式と異なり、柔らかく暖かな雰囲気を感じさせるのが柿右衛門様式。濁手と呼ばれる独特の乳白色の地色は、赤色の釉薬との組み合わせによって非常に映えます。しかし、原料となる土の耐火性が強いなど調合が困難。さらに焼成時・乾燥時の体積変化が非常に大きいため、作製が困難であり歩留まりが良くない。図柄には「岩梅に鳥」、「もみじに鹿」、「竹に虎」、「粟に鶉(うずら)」など典型的なパターンがいくつかあります。絵柄は時代とともに変化しており、初期は明赤絵の影響がありましたが、やがて狩野派土佐派四条派琳派などの影響が入っていきました。近年は写生を基にした現代的な画風が多い。

作品は「酒井田柿右衛門」名義となりますが、特に江戸時代における陶磁器の製作は成形、焼成、絵付けなど各プロセスをそれぞれ熟練した職人が分担しており、一人で製作していたわけではありません。例えば、明治時代以降では数十人の職人を雇用しており、個人のクリエーターというより製作チームの統括者かつデザイナーとして考えた方がより実像に近い。このためなどもあり、初代が柿右衛門様式を考案した単独の個人であるかを疑う学説もあります。


ときのザクセン選帝侯領とポーランドの王でもあったアウグスト2世が、錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを幽閉して(!)、この白磁を作れと命じました。

アウグスト2世(Louis de Silvestre-August II)


ヨハン・フリードリッヒ・ベトガー(Johann Friedrich Böttger)

ベトガーは、物理学者のエーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス(Ehrenfried Walther von Tschirnhaus)の協力を得て1709年に白磁の製造に成功します。

エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス(Ehrenfried Walther von Tschirnhaus)

この成功を機に1710年にドレスデンに王立ザクセン磁器工場が設立されます。この工場が、現在の国立マイセン磁器製作所の始まりまです。ドレスデンはここ。

ベドガーはその後37歳で亡くなってしまいます。

マイセンは、当初は先に述べたように日本の伊万里焼の影響を受けていましたが、1720年より以降ヨーロッパのロココ調の作品が主流になっていきます。ロココとは、バロックに次ぐ美術様式で18世紀、ルイ15世のフランス宮廷から始まり、広がっていきました。


1764年には、私設の芸術学校が創設されます。

1865年になって国立マイセン磁器製作所が設立されます。


マイセンの商品


ブルーオニオン

ブルーオニオン
画像引用:マイセン

1739年にクレッチマーが、中国写しの染付の技法を生かして完成させた「ブルーオニオン(青い玉ネギ模様)」。この呼称は、柘榴(ザクロ)を玉ネギと間違えたため、という説明が定説になっています。中国のお皿に写実的に描かれた柘榴は、マイセンでも初期の頃には忠実に真似られていました。しかし、それもつかの間、見慣れぬ果物は馴染み深い玉ネギに姿を変え、桃のような果物、そして竹がバランスよく配置されることになりました。 組み合わされた数の神秘と共にこの図柄そのものの中にも、中国伝来のおめでたい「象徴」が描かれています。1860年に意匠登録するも、のちの財政危機の際に使用権を売却。その結果、他のブランドでも使用されることになります。



ブルーオニオン・スタイル


ブルーオニオンスタイル
画像引用:マイセン

伝統的なブルーオニオンの柄を、現代風にアレンジした「スタイル」。マイセンならではの透明感ある白磁に余白を生かしたデザインがモダンな感覚は「日常の芸術」をめざすマイセンの新しい提案です。

ホワイトレリーフ

ホワイトレリーフ
コーヒーカップ&ソーサー
画像引用:マイセン

「ホワイトレリーフ」のシリーズは、さまざまな食器との組み合わせを可能にし、和・洋・中 いずれの様式にもマッチするものです。マイセンのトップアーティスト、ルードヴィッヒ・ツェプナーが生み出した「グローサーアウスシュニット(Großer Ausschnitt)」 というフォームに、インド旅行の印象から生まれたというレリーフがほどこされました。レリーフ柄が鏡のような白磁の表面をおおい、波紋のような広がりと美しさを出しています。



Wellenspiel「波の戯れ」ホワイト


「波の戯れ」ホワイト ディナープレート
画像引用:マイセン

「波の戯れ」は、さざ波のようなレリーフがモダンなフォームに映えた「用の美」を感じさせるシリーズです。フォームもデザインもアーティストのグループによって考案・製作されました。マイセンの食器のフォームには、自然から題材を得て生まれたものが数多くありますが、この「波の戯れ」もそのひとつ。水面に生まれるさざ波が清冽な印象を与えるレリーフや、花のつぼみや茎を連想させるフォームに大きな特徴があります。フォームを考案したのは、現代マイセンの造形の旗手といわれるザビーネ・ワックス女史。幾何学的で繊細なレリーフをひとつひとつ正確に手でカットして、母型を作り出しました。ティーカップ、コーヒーカップ、プレート、ポットなど、すべてに統一性があり、流れるようなラインが生まれます。
湖を渡る風によって水面にさざ波がたつように、輝く白磁の上を波のようなレリーフが浮かんでいます。考案したのは、マイセンのデザイナー、ヨルク・ダニエルチュク。彼の指導のもとで、熟練した職人達が調和のとれた波型レリーフを効果的につけていきました。

人形コレクション

「人形」は、300年近い歴史を誇るマイセン磁器の中でも特に重要なジャンルのひとつです。アウグスト強王の命を受けた錬金術師ベトガーが白い硬質磁器を完成させて間もなく、マイセン磁器製作所はヨハン・ヨアヒム・ケンドラーという稀代の天才造形家を招き入れました。ケンドラーこそ、「磁器」という東洋の文化に西洋の「形」を与えた人であり、マイセン磁器に数え切れないほどの人形や食器をもたらした人です。

ケンドラーが最初に取り組んだのは、アウグスト強王の日本宮を飾る「動物」でした。そして次に数多くのロココ様式の人形がつくられました。
「宮廷の光景」「羊飼いシーン」「イタリア・コメディ」などが主なものです。また、ギリシア・ローマ神話からも魅力的なテーマが次々に生まれています。肌の色、目、顔や手足の表情、臨場感、それに衣服の模様やリボンにいたるまで心技一体となって作り上げる伝統と技術が見所です。

人形の造形家や絵付け師は、食器のそれとは異なった修業の後、専門家として生涯をマイセンの人形と共に過ごします。大きなものは途中数ヶ月間寝かせて乾燥させ、部分部分をそれぞれ別に作ってはそれを磁土でつないでいくなど、すべてが時間をかけた繊細な手仕事で行なわれます。腕や衣服の重いひだが、焼成中に失敗してしまうことも少なくありません。

芸術のひとつの完成した姿としてのマイセンの人形には、時代を超えた永遠の命がこめられています。

マイセンのトレードマーク


トレードマークの2本の剣は、1723年から使用されています。生産を保護するために導入された、剣を交差させたマークは、現存する最古の商標のひとつです。

マイセンのトレードマーク

参照

※1:Meissen porcelain on Wikipedia, the free encyclopedia

※2:マイセン (陶磁器) ウィキペディア


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?