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残された時間は…もはやない。

「残りの人生をどう生きたいか?」

アラフォーには、もう残された活動時間は少ない。

圧倒的な“遅れ”の中で、自分の人生そのものをどうクリエイトできるか、どうできる限り使い倒すことが“納得できる人生解”なのか。

“死ぬしかない”という底つきを経由して辿り着いた、自分自身への最後の命題である。

仕事での立身出世や高収入よりも、どんな資本主義経済に準ずる活動よりも、そんなものでの一喜一憂など取るに足らない事象に思えるほどの、私には死ぬまでに解決しなければならない、残りの人生を賭けた命題があったのだ。

その命題が見つかったことこそ、私が約40年生き永らえた意味であると、いささか大げさではあるが、膝を打って納得できた。

「生きづらさから回復は可能か!?」

“残りの人生をどう生きたいか!?”という問いへの答えは、この一文に置き換えられる。

生きづらさを一歩ずつほんの少しずつでも、私なりの解決を試みること。今現在目前にありありと存在している“生きづらさ”に、死ぬまでの私なりの抵抗をし続けること。難しいかもしれない解決を願いながら、世間的な価値では微力でも私なりのトライを試みること。

それが、私がここから死ぬまで“生きる”ということそのものだ。

“生きづらさへのあがない”=私にとって“生きるということ”

ようやく気付いてもんどり打った最近の出来事である。

塊になったマッスな糸屑のような人生を一本ずつでも解きほぐすことは可能か!?

もしくは、人生負債のようになってしまった、生きることそのものがPTSDの塊のような状態。一分一秒がネガティブなブレインフォグに包まれてしまった状態を自己破産のようにリセットした上で、そこから私なりの人生ストーリーを紡ぐことは可能か!?

これらの仮説を実証・検証することこそが、私の仕事であり生きるモチベーションの根源なのであると、ようやく今腹が据わった。

つまり、究極の“自己理解”、そこに至るための日々の試行錯誤こそが、私の残りの人生時間の使い方なのだ。

諦め捨てながら、できることやりたいことを見定め行動する日々をツラツラ報告できたら嬉しい限りだ。

アラフォー。私にはもう時間がないのだ。



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