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聞く耳

 「どんなに真剣に話しても、強く訴えても、私の話は誰にも聞いてもらえない」と思うようになったいくつかのきっかけをまとめてみる。
 長らく私が聞く耳を持てなかったのは、幼少期〜思春期に周りにいた大人の多くが、私の話に聞く耳を持ってくれなかったからだと思う。もちろんそれだけが原因のすべてではないけれど、大きな一因であることに間違いない。


 何事も必要以上。過干渉。情に厚く素直な人だけど、そのぶん歯に衣着せぬ物言いで悪気なく人を傷付ける。怒りの沸点が低く、話しながら感情のコントロールするのが難しい。「相手が傷付くだろうから言い方を工夫しよう」みたいな思考回路がほとんどない。24歳くらいまで、あらゆる選択の場面で母の顔が脳裏をよぎるほど精神的に支配されていた。
 怒鳴り散らす母に「聞いて」と言える隙はなく、ひたすら黙って罵声を荒びるしかなかった。平手や物が飛んでくることもあった。母の気が済みようやく解放された頃には何か話す気力などなく、泥のように眠るしかなかった。かといって、落ち着いて黙っている母に相談などを持ちかけるのもかなり勇気が要った。私の意見や思いはまず否定されると思い込んでいたし、実際否定されることが多かった。しかしなかには、否定しつつも最終的にはやらせてくれることもあった。判断基準は不明。
 私が誰かと(しばしばそれは話を聞いてくれる大人だった)話し、盛り上がっていると「大人相手にしゃべりすぎ、やめなさい」と怒られ、引き離された。母は子どもは子どもと話すものだと思っていたのかもしれないが、家系的にも環境的にも私の周りにはあまり子どもがいなかった。大人ばかりの環境で、たまに誰かが構ってくれるタイミングが嬉しいがために、ついしゃべりすぎてしまった節はあるかもしれない。母にはその様子が危なっかしく見えたのだろう。でも怒ったり、相手の大人に「すみません」とか謝る必要はないと思う。
 父と一緒にお店をやり始めて、ママ友以外の交友関係が広がった5〜6年前くらいから徐々に丸くなってきた気がする。年齢もあるかもしれない。


 烈火の如く怒り狂う母とめそめそ泣く私を差し置いて自室に引きこもる。嵐が過ぎるとこそこそ出てきて、母や私を宥めたり宥めなかったりする。渦中には絶対出てこない。
 聞いているようで聞いていない。私が何を求めているのか / 何に辛さを感じているのかなどの、心の本質的な動きに向き合おうとしない。寄り添っているように見せかけて「母の性格はもう治らないんだから、娘の私が母の言うことを聞いていさえすれば平和に事は済む」というスタンスを貫いてくる。この、私に寄り添っているように見せかけて父の都合のいい形にまとめたがる性質は今も健在。ぶっちゃけ私に関心がないんだと思う。支配したいけど関心はない、みたいな。
 父は母とお店を始めるまでは会社員だった。それなりの役職を務め、朝は早く夜は遅い生活を続けていた。専業主婦だった母に比べて私と過ごす時間は少なかったが、私と二人で遊びに出かけたりすることもあったし、決して仲が悪いわけではなかった。しかし、父と関わるときは、いつも心にべったりと嫌な感触があって、微妙に心地悪かった。
 本記事のテーマには直接関係ないけど、父はかなり右。父自身が支配的なもの、父権制などに安心を覚えるタイプだから、自分の娘にも父権的な強い態度を取っていないと不安になるのかもしれない。コロナ禍以降、右っぷりに拍車がかかっている。

過剰歯の抜歯手術
 6歳のときバカデカ大病院で過剰歯を抜いた。部分麻酔がほとんど効いておらず、何度も痛みを訴え続けたが、誰もまともに対応してくれなかった……。というふうに当時の私の目には映った。一度に打っていい麻酔の量とか色々決まりがあったのかもしれない。
 ちょうどその頃、私は学校で苛烈ないじめを受けていた。抜歯手術のために学校を休めるのは嬉しかったが、抜歯手術もまた苦痛で、絶望した。世界のどこにも逃げ場がなくてつらかった。

 今こうして人の話を聞けるようになった──むしろ人の話を聞くのが好きになったのは、恩人や臨床心理士、牧師、夫など、私の話にちゃんと聞く耳を持ってくれる人に出会えたからだ。相手に聞く耳を持ってもらえたとき初めて、ちゃんと話を聞こうとか、聞いてもらえる話し方をしようとか思えるようになった。私も彼らのように、いかなる相手にも動じず、静かに耳を傾けられる胆力を持つしなやかな人になりたい。

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Ivan Meštrović, Archangel Gabriel, 1918

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