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表現と創作の手段

 展覧会三昧の5月を経て、改めて自分自身の創作活動について考えている。

 私は向き・不向きは極端だけど「やればまぁできなくはない」がたくさんある。学校の成績は理数系と体育を除いてだいたい中の上。幼少期〜大学卒業まで、クラシックバレエやモダンダンス、作品撮り系のモデルなど非言語表現を中心に色々な経験をしてきた。
 しかし、自分が表現したいことを最も的確かつ自由に表現できる手段がなかなか見つからなかった。とくにモダンダンスなどの身体表現は、クリエーションの面のみならず界隈の人間関係が刺激的すぎて無理だった。何よりも、基本的な感情表現の方法を体得するよりも先に、大人(親や先生)の機嫌を取る方法を覚えてしまったのが一番の原因だろう。空気は読めないくせに大人の顔色を読むのは得意で、都合のいい子を演じることでサバイバルする悪癖は、今でも私を苦しめている。

※いわゆる「早咲き」とは、人生の早い段階から「自分が表現したいこと」と「自分が表現したいことを最も的確かつ自在に表現できる手段」を確信し、その確信を得た自分を信じて全力投球できる人なのだろう。誰にでもできることではない。

 しかし、ここ数年で文章を書くようになってから性格が大きく変わった。別に、いつも「これを表現したい!」っていう明確な何かがあるわけではないのだが、そのとき自分が表現したいことを、最も的確かつ自在に表現できる手段として「執筆」を選ぶ機会が増えた。
 対外活動のみならず、年始から続けている日記の影響は大きい。最初はその日あった出来事をまとめる過程すら怖かったけど、今となっては私が私であることを手放さないための手段として欠かせない。

 今一番の悩みは、私にしかできない表現・作れないものは一体どんなものなのか、どうやって私にしかできない表現を掴んでいけばいいのかが全然分からないことだ。自信がないのはもちろん、私が私自身のことをあまりよく知らないから、本気で私が私のことを知ろうとしていないからだと思う。
 最近になってようやく「自意識」と「私という一個人への関心」は全く別物なのだと気付いた。私は今まで、私自身の性格や言動、とくに創作物を純粋にいいと思えたことがない。「どうせ私よりもっと上手い人 / 才能に恵まれた人がいるんだから、私が頑張ったところで意味がない。高が知れている」という諦念のような感情が先立つせいで、やればやるほどモチベーションが下がるのだ。自分で自分をこき下ろし、活動そのものをやめてしまうことが多々あった(今取り組んでいる刺繍と執筆についても、上記の思考で自分を過剰に批判している節があるため、気を付けなければならない)。

 創作活動をするにあたって、自分を深く知るためには何をしたらいいのだろうか。日記や諸々の記録執筆、カウンセリングの他にもいい方法があったら試したい。幸いにも友達にアーティストがたくさんいるから、各方面に聞いてみようかな。

 世の中には「あなたが創る○○だからこそ好き」と思えるものはたくさんある。正直、クリエイターにとってこれほど嬉しい褒め言葉はないだろう。分野を問わず自分にしかできない表現を追求して、作品に仕上げて世に出している人を見ると勇気が湧いてくる。私も紆余曲折を恐れずに、諦めずにやっていきたいと思う。

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