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運を天に任せる

「運を天に任せる」と聞いて
あなたはどう思うだろうか。

① 無責任だ。
② もっと他に出来ることがある。
③ 私の中にその選択は初めからない。

そこには、自分の存在を無視した
投げやりな生き方が感じられ、
今の情報社会にあっては死語の感があるのは
否めないように感じられると思う。

しかし現実にあって、
この選択を避けられない状況が
訪れることが多々ある。
否、人生は常に選択の自由があり、
前向きな「運を天に任せる」
の生き方もあるのではないだろうか。

「どちらを選ぶか決めなさい。」
私たちは物心ついてから、
すべてを自分で決めて前へ進む
というように教育されてきた。

それが社会的な人間の第一歩として
「自分が決める」という選択を保障され、
またそれは世の中のウラオモテを
予感させられる一歩でもあった。

「自分決める」ではなく
「自分決める」。
すべてにおいて誰かが自分の道を決め、
それを「自分が決めた」
と悟らされるような状況に追い込まれていく。
ほとんどの場合その自覚はないと思う。

社会の中でさまざまな出来事に遭遇し、
矛盾を感じ次第に
「自分決める」に違和感を覚え
「自分決める」と決断したとき、
自分自身との新しい出会いが始まるのだ。

「運を天に任す」とは、
こういう状況に現れる心境ではないだろうか。

すべてに対して、
人間が作った人間中心のレールの下でなく、
いのちのルールのまま生きる。

それは動物的にわがままに生きる
ということではない。自らの運命を、
自然のありのままに生きていく
ということに他ならない。

いのちは何処から現れ何処に消えていくのか
誰人も知ることはない。
しかしいのちは生きるための
智慧と力に満ちている。

わたしがわたしらしく生きていこうとするとき、
無くてはならぬ智慧と力の源泉なのだ。

ひとたびそこに至ると
汲めども尽きぬ智慧と力に
わたしたちは驚愕する。

智慧とはすべてを見通す自由な感覚であり、
力とはパワーでなく、あらゆる存在と
自在につながる柔軟力をいう。

これが誰人の中にもあり、役割に応じて
それぞれ発現されてくるのである。

「自分が決める」と「運を天に任せる」とは
同意である。

今まで「自分を決める」で
人間社会のレールの下、
ウラオモテを使い分けながら矛盾を感じ、
時に精神に過度なプレッシャーを感じ、
身体を虐待しながらそれぞれの環境と
バランスを図って生きてきたが、
既にそれは限界を超え、
人間社会の中にも現れていると感じられる。

無言の筈のいのちが、
さまざまな形で人間社会に噴出
しているように感じられるのだ。

国家も、社会も、経済も、産業も、
医療も、学校も、家庭も、個人も、
それぞれに階層的な危機の噴出に
なす術なく立ち尽くしているように
見えてくるのだ。

今一度、
「運を天に任せる」
をどう感ずるか、あなたに聞いてみたい。

① 無責任だ。
② もっと他に出来ることがある。
③ 私の中にその選択は初めからない。
 
①②③ではなく、
すべての変革はあなたの一歩
「自分が決める」
の決断から始まるのだ。



                                 

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