Vol.05 ひとつの転機。|山田 里菜さん
チアダンスのパフォーマーとして充分な実力がありながらも、りなさんにはJULIASをやめて別の道に進もうとしていた時期がある。
「チアダンスならではの動きを自分のものにできた」と自分で思えたところでJULIASはスパッとやめようと考えていました。大学3年生になったところでダンス留学をしてみたいと思っていたんです。
ダンサーとして食べていくのは難しいと分かっていたので、プロになるつもりはなかったですね。単純に個人としてダンスが上手くなりたい、そのために留学したいと思っていました。
でも、プロになるつもりもないのに、ダンス留学しようとしていた娘の将来を両親が心配したこともあって。結局留学には行きませんでした。
その後りなさんは、JULIASでチアダンスを続けることを決め、一層練習に励んだ。
そして4年生の時、チームは全日本学生チアダンス選手権大会で総合グランプリを獲得。チームにとって実に5年ぶりの優勝だった。
その年の全米学生チアダンス選手権大会でも、JULIASは第2位という高い記録を残している。
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ダンス留学の希望は手放したものの、大学生活最後の年にチームの好成績に貢献したりなさんは、大学卒業後、JCDAに所属しながらパフォーマーとインストラクターとして活動した。
ひたすら踊り、振り付けし、指導する。そんな忙しい毎日だったという。
指導者としての道を考えはじめたのは、ダンス留学を検討していた頃のことだそうだ。
ダンサーと比べれば、インストラクターは食べていける保証もあるかと思い、大学2年の時にJCDAのインストラクター講座を受講して、協会公認のインストラクターの資格を取得しました。
実際に指導者としての活動をはじめたのは、大学4年生の時で、当時、自分のコーチから「アルバイトで子どものレッスンをしてみないか」と誘われたのが最初です。そこからJCDA公認のインストラクターしたり、知人から紹介してもらったりしながら、指導する場を増やしていきました。
大学時代から指導者としての経験も積み、パフォーマーよりもインストラクターとしての活動の比重が大きくなってきた25歳の時、りなさんにひとつの転機が訪れる。
母校である玉川大学のJULIASのコーチ就任が決まったのだ。
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大学卒業後、JULIASコーチ就任が決まるまでの3年間ほどは、パフォーマーやインストラクターとは別に、りなさんは保険販売の勉強もしていた。
保険会社経営をされているお父様の影響だったそうだが、なかなか興味の持てなかった保険の勉強には、いまひとつ身が入らないでいたという。
そんな中、JULIASのコーチに就任したことは、りなさんにとってひとつの区切りとなったようだ。
就任時はこれまで以上に責任のある仕事を任せられて、「結果を出さなきゃ」と意気込んでいましたね。
この仕事が決まったことを期に、保険の勉強は完全にやめました。多分、父としてはいづれ私に会社を継いで欲しかったんじゃないかなあと思うんですけど…。
ただ自分の気持ちとしては、それまでのインストラクター経験を通して、自分が主となって教える場も持ちたいと思っていたので、父の会社の子会社としてGravisを設立することに決めました。
25歳のあの時は、コーチやインストラクター業に専念することを決めて、会社も作って、かなり気合の入った状態だったと思います。
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りなさんにとって、大学時代から二十代半ばのこの時期は、パフォーマーとして技術を習得し、成熟させたところから、インストラクターとしての入り口に立った転換期だったと言えるだろう。
そして同時に、経営者としての道も歩み出し、Gravisの経営に携わるようにもなった。
ただひとつの問題は、りなさんをはじめ、設立時のメンバーは皆、経営においてはビギナーということだった。
(Vol.06へつづきます)