1ラブライブ

【ANIME】ラブライブ!『君は白い羽根をつかむ勇気はあるか?――勇気を唄うミュージカルに加わるRPG――』

以前に何度かアナウンスしたように、アニメ関係のレビューをいくつか書いていこうと思う。とはいっても、アニメ映画作品などのレビューを書いていたし、とある評論系本に寄稿したこともあり、まったくの不得手というわけではないと思っている。

今回は、その評論系本に寄稿した原稿を、ここに掲載したいと思う。アニバタvol.15、アニメ・マンガ評論刊行会が制作している雑誌だ。主宰者のたつざわさんには許可を得ての掲載、この場をお借りして、感謝申し上げます、ありがとうございます!。

http://www.hyoron.org/anibata15

タイトルどおり、作品は『ラブライブ!』μ'sが活躍した作品について、ぼくは書いた。
ちょっとした打ち明け話をすると、僕はこの作品に対して、『セリフを書き出し、そこから見えるもので語る。映像を読み込み、そこから見えるものでは語らない』ということに徹した。
つまり、映像作品としてではなく、文学・文芸作品としてリスペクトし、相対しようと努めたのだ。

それがうまく奏効したかはわからないが、僕の文を読んで頂ければ、ラブライブという作品がどんな作品か?見通しが良くなると思う。

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ーきっかけは突然にー

何がきっかけだったかはよく覚えていない。
どんなキャラが表紙で、どんなタイトルになっていたかすら覚えてもいない。なぜか僕はその時その雑誌を手に取り、いくつかの記事を読んだ後に、とある記事に目を留めたことは覚えている

「アスキー(後にKADOKAWAと合併)とサンライズと『電撃G's magazine』合同コラボ作品かぁ。しかもCDがランティスから出るのかぁ。」

なぜだか、すごくしっくりときた感覚があった。
2010年8月15日、僕はコミックマーケット78の3日目に足を運び、確か『僕らのLIVE 君とのLIFE』のPVを見た。まだ声の出演は明かされておらず、というかどのキャラが誰だかもわからない状態だったが、どことなく僕の心にしっくりときた感覚があったのを今でも覚えている。出会ってから今まで、僕にとって『ラブライブ!』は「しっくりとくる」作品なのだ。

アニメ化以前 ーなぜ「しっくりときた」のかー 

読者参加型の企画は古くから体をなしていている、読者側の意見を参考にして生み出された企画/コンテンツといえばより多くを思い出せるだろう。しかも『電撃G's magazine』の読者参加型企画といえば、『シスター・プリンセス』に始まり、『双恋』に『Strawberry Panic!』と名作佳作を生み出してきたのを覚えていたし、なによりこの企画は本誌では約3年ぶりとなる読者企画だったのだ。

その3年間で本誌は、アニメ/ゲーム/18禁ゲームなどの美少女キャラクターを中心に据えた雑誌へと変貌を遂げていた。思い出してほしいのが、この企画が発表された2010年ごろに放映されていた『Angel Beats!』の存在だ。

Key/麻枝准作品を大きく取り上げることが多かった本誌は、今作のテレビ放映時で大きなヒットを生み出し、売り切れ続出になるほどに販売数を伸ばした。この影響で、『Angel Beats!』を求めて手に取った人に大きなPRができたといえよう。

そんな中で新たな読者投稿企画として選んだ題材が当時のアキハバラカルチャーを新たにレペゼン(representの略で象徴・代表という意味)するように台頭してきたアイドルということで、ほとんど遠目に本誌を見ているだけだった自分も少し期待してしまった。

読者企画がどの部分で読み手とつながっていったかといえば、グループの名前と各シングルでのセンターポジションを決める総選挙が該当するだろう。アイドルグループの名前とセンターポジションをファンに決めてもらうというのは、2000年代後期のアイドルグループではよくある話だ。
「ファンと近い距離感」の構築は、AKB48以降の2000年代アイドルのマナーを踏襲し、2005年に発売されていた『アイドルマスター』とは違った形だったのは言うまでもない。

ほぼ2年間で発売されたシングルCDとサブグループとして発売されたCDは数多く、アニメ化が始まる前に行われた2012年2月の横浜ブリッツでのファーストライブを完遂するほどの曲数があり、チケットはソールドアウト(完売)するほどの人気だった。
ああ、今にしてみればホント行けばよかった、あのときツイッターの相互フォロワーの人から「チケットが余っているよ」と言われたのだが、確か悪天候で行く気がしなかったんだよな。

この時期に発表されたCDには、ボイスドラマが必ず収録されていた。10分程度のちょっとしたエピソードが数曲収録され、聞き手に向けられたメッセージ……もとい恋の告白めいたちょっとエッチなシチュエーションを模したものもあった。『電撃G's magazine』誌上のインタビュー形式のショートストーリーもあり、目と耳でのみ得られる情報を、脳内でいかようにでも想像を広げ楽しんでいた時期。そもそも、アニメ化が決定するまでほぼ『電撃G's magazine』が彼女らの主戦場であったがゆえ、『電撃G's magazine』読者以外の層には知られていなかったように感じられる。

イヤホンを付けたオタクな友達に久しぶりに声をかけたら、そのイヤホンから「なに言ってるんですかっ! ホントもう! あなたって人は!」と三森すずこらしき声が聞こえた一瞬、その緊密すぎて危うい雰囲気がいかように怪しいものなのかを想像してもらえるだろうか? こうしてリスナーとこのアイドル企画の熱量はどんどんと高まっていった。

僕はここに、2000年代アイドル現場の近すぎる距離感はもとより、自身が2000年代後半に足しげく通ったロックバンドのライブ会場で起こる緊密な距離感と同じものを感じた。自分がすごいと感じられるコンテンツを生み出す人間と会話できる、その距離感と実体験から基づく感覚が、僕に「しっくりとくる」と思わせてしまったのだ。

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アニメ第1期 ーつかんだその手を離さないためにー 

彼女らがμ'sと名づけられたのは2011年の頭、アニメ化が発表されたのは2012年2月19日のファーストライブ、2013年1月~3月にテレビアニメ第1期が放送された。

そのストーリーは、秋葉原と神保町と神田の間にある学校が廃校目前となり、生徒たちがアイドルとして活動し、多くの入学者を集めて廃校を防ぎ、またアイドル大会での活躍を目指して努力していくという流れだ。

高坂穂乃果は友人の南ことりと園田海未を説得し、アイドルとして活動するために練習を開始。穂乃果が音楽室で見つけた西木野真姫、アイドル好きの小泉花陽と運動神経抜群の星空凛の3人、それまで一人で活動を続けていたアイドル部部長の矢澤にこと、回を追うごとに新たににメンバーが加わっていき、そのたびに挿入歌が歌われていった。彼女らの行動に異を唱えていた絢瀬絵里、彼女のそばにいながらもひそかに7人を援助していた東條希が加わることで、μ'sが体を成すことになる。

第1期のストーリーラインを創造する元ネタ、それはズバリRPG(ロールプレイングゲーム)ではないだろうか。勇者がスタート地点から歩みを始め、一人また一人と仲間を増やしていく、それにそっくりそのままなのだ。

<いやお前、何を急にそんな指摘をすんのさ?>などと言われそうだが、もともとCDドラマや雑誌収録の短編は「グループ結成後」の話だ。ならば単純に日常系アニメよろしく「アイドル活動に奮闘する9人の女子高生の日常」を描けばよいはず、だが本作がそれを選ばずに、「グループ結成までに至るまでの物語とそれ以後の物語」を描いていることは、非常に重要な点だと思うのだ。

第1期第8話を参考にしてみよう。絢瀬絵里がμ'sへ参加するかどうかを悩んでいるところにメンバーで押しかけ、ぜひ入部してほしいと頼まれるワンシーンがある。綾瀬はそれを拒むが、東條の言葉が痛打となって彼女がグループ加入を決心するシーンのことだ。

東條希「やってみたらいいやん? 特に理由なんて必要ない。やりたいからやってみる、本当にやりたいことってそんな感じで始まるんやない?」

それまで絢瀬絵里は、なにかと理由がないと動かないタイプの人間だったのだろう。だれそれがこうだから、あれそれがそうだから、そんな形で行動してきたんだろうと東條は指摘していた。

これは憶測だが、ダンスを始めたのも親のすすめなのだろう。自分の力だけではどうしようもできない相手と現実に直面し、ダンスのオーディションで負けて泣いたことで、親の気持ちに応えられない自分と出会った。
それにより、過度なまでに自分を追いつめて他人の気持ちに応えようとする姿へと変化した。彼女は負けん気は強いが、それと同時に負けることにひどく弱い存在なのだろう。そんな本性がこの第8話で明らかになっている。
この話のラストに挿入されるのは、2010年8月に僕がほぼ初めて彼女らを認識した『僕らのLIVE 君とのLIFE』なのが非常に印象深く、また示唆的だ。

このようにして、「アイドル活動に奮闘する9人の女子高生の日常」を描かず、RPGのように<廃校を防ぐというゴール>と<ラブライブ(スクールアイドルの全国大会)で活躍するというゴール>との二つのゴールが混在したビルディングスロマン型ストーリーに仕上がっている(この場合ではスポ根型ともいえようか?)。

このストーリーは何を生み出したのか?。話数を経るごとにメンバー間での親密さが上がりグループを成すことで、それが≒となって視聴者の心をも一つにする結束感を生み出したのだ

面白いのは、彼女らの葛藤とその解決は全て、<素直になる>ということで統一されていることにある。これは第2期での星空凛/矢澤にこ/東條希でも同じだ。素直になり、心を裸にし、ストレートに言葉を吐き出し、互いの良し悪(あ)しをどんどんと知っていき、「君が必要なのだ」と言ってもらえるフィールドを熟成していく。人と人とのつながりによって自身も他者も救われる、そういったメカニズムが今作のストーリーにもμ'sというグループにも繋(つな)がっているのだ。

物語上で経験するエピソードを通して一人また一人と仲間を増やし、経験値がどんどんと増えていく。活動が大きくなるにつれ、より高みを目指すために自然と立ち上がる目標と壁を乗り越えるために、新たにメンバーが加わっていく。

曲を作れる人物→心を同じくする同志→活動を続けていくための精神的支柱→より高次元のパフォーマンスを知る人物→場を和ませてより強い仲を形成するための円滑油の存在、例えば大ざっぱだが、このようにして自分たちのパーティーを増やしていく、まさにRPG的なストーリーラインは本当に綺麗に収まっている。存続の危機から一転して再集合して夢に向かって決意する、という最後3話の流れもビルディングスロマンとして合格の域だろう。

その結果、一つに結束した『ラブライブ!』は大きなアクションを示すようになる。まず一番は関連CDの爆発的なヒットだ。それまでとは比べものにならないほどに売れに売れ、オリコンチャートを席巻。瞬く間に音楽業界のみならず世の中に知れ渡ることになる。2013年の第1期放送から約2年後、紅白歌合戦にするほどまでになった。2010年代のアニメ界/音楽界において特筆すべき出来事であろう。

それもこれも、『ラブライブ!』がファンをつかんで離さない、計算的かつ巧みなRPG的ストーリーラインによって生まれた魅力だったのだ。『ラブライブ!』第1期とは、<つかんだキミの手を離さないRPG>だったのではないだろうか。

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アニメ第2期 ー歌い、踊り、泣き笑い、永遠になるー

読み手に伝わりやすいストーリーは、ストーリーの論理をキャラクターの言葉にして、印象的なタイミングで語ってくれる。目の前で起こった事象をさも全て知っているかのようなセリフを並べていくのが、読み手に伝わりやすいストーリーではない。

それは前節で話したような<人と人とのつながりによって自身も他者も救われる>というようなストーリーラインを肉づけるために、印象的なセリフが各話の中で所々吐き出され、積み重なり、一つの軌跡をはっきりと描くようなストーリーのことを指す。
それでいて、読み手に伝わりやすいストーリーは、いくつかの葛藤が本当に素直な形で出てくる。

第1期第12話、終盤で語る穂乃果の独白は、この2期作品の問題を完璧にいぬいている。

穂乃果「ラブライブに出場してどうなるの? もう学校は存続することになったんだから、出場したって意味がないよ。それに無理だよ、A-RISEみたいになんて、いくら練習したってなれっこない」
その台詞に激高するにこ、にこを体で止めに入る真姫、「じゃあどうすればいいと思う?」と聞き返す絵里。
その返答に、高坂穂乃果の根幹が見える。
(9人で最後のライブを……というモノローグから)「辞めます、スクールアイドル、辞めます」

立ち去ろうとする穂乃果に対し、友達だった海未が右手でを殴りつけ、「そんな人だとは思いませんでした、最低です!」と言い放つ。

ここで、第1期第13話冒頭での絢瀬絵里の言葉を思い出してみよう

絵里「来年までだけど学校が存続することになって、私たちはなにを目標に活動をするべきか、考える時期に来ていたのよ」

3年生で卒業を迎える3人がいる。となれば、日常系作品のような永遠性を持ったストーリーではない今作は、「メンバーの卒業」をどう取り上げるかを選択せざるを得ない。それはアニメ版『けいおん!』ですら免れることのできなかった問題だ。

第1期ではこれらの問題は解決せず、<南ことりや園田海未や絢瀬絵里や小泉花陽らのパーソナリティーへの理解と解決>と<グループ体制作りと廃校阻止>が優先された格好になっている。無論だが無理に卒業を描かなくてもいい、オリジナルストーリー作品であるがゆえ、「原作準拠」なんて気にしなくてもいいことに気づいてほしい。

第2期第1話にて矢澤にこが

「(ラブライブに出ないなんて)あり得ないんだけど? ラブライブよ? ラブライブ! スクールアイドルの憧れよ? あんた真っ先に出ようって言いそうなもんじゃない?~(中略)~いままでラブライブを目標に頑張ってきたじゃない? 違うの?」

という言葉を投げかける。

当時この回を見ていた人の多くは見過ごし、少なからずの人とここまで読んだ読み手ならばちょっとした読み違いだと気づくだろう。言ってしまえば視聴者を『ラブライブ!』第2期が持っている論理テーブル(この場合はアニメ第2期のストーリー設計段階で決められたであろう構造)と対面させるための引っ掛けでもある。

高坂穂乃果にとっては、ラブライブへの出場は見据えていた目標ではあるが、最も優先すべき事項ではない、最優先事項であった<廃校阻止>は第1期においてほぼ達成されている。彼女がμ'sの活動を通じて何を優先しようとしていたかは、物語の中途で明らかになっている。当該場面前後での彼女の言葉を拾ってみよう。

「わたしは歌って踊って、みんなと幸せなら、それで……」
と答えつつも、みんなの説得を受けて
「本当はラブライブにすごく出たい!」

と素直に告白する。あれもこれもと過剰になるほどに詰め込んだベストな結果と、全体の幸福を見据えたベターな結果、彼女は両肩に背負い迷っていたのだ。

海未「また自分のせいで周りの人間に迷惑をかけてしまうのではないか?と心配しているんでしょう? ラブライブに夢中になって、周りが見えなくなって、生徒会長として学校のみんなに迷惑をかけることはあってはならない、と」

幼なじみである海未に諭された彼女は、全国優勝を目指すことを目標にしてスクールアイドル活動に<も>力を入れていくことになる。第2期第1話の中盤から第2期終盤にかけて卒業という<タイムリミット>は影のようにして彼女らにつきまとう。
廃校を免れて以降のμ'sの9人全員は、時間的タイムリミットと意識的に向き合って「このメンバーで楽しい思い出を作る」ことに力を入れているが、実は第2期序盤からその萌芽(ほう が)はあったのだ。

無論だが、ラブライブ出場に向けての練習や特訓すらも、彼女らにとっては思い出作りに含まれることを忘れてはいけない。この場では対比的に書いているが、実感としては両者は安易に切り離せない密着性を持っている。

注目すべきなのは、ストーリー上が進むにつれて浮上するいくつかの問題に対して、「じゃあ○○をしよう!」と他のことに逃げつつも、クールダウンした後にはきっちりと問題解決に向かおうとする姿勢を、分かりやすく描かれている点だ。

そのきっかけを口にするのは、印象深いという意味で穂乃果ばかりが目立つが、他のメンバー8人にもそういった志向が表れており、「9人全員で行動する」というシーンが非常に多い。第1話の後には第2話で合宿に行き、その後にも多くの出来事をメンバー間で見つけだし、検討し、共有し、答えを出しているのだ。

それはまるで直接民主制のような姿であるし、高坂穂乃果が全てを背負い込まないようにするために、またメンバー全員がイエスといえる解答がμ'sにとっての最適解としてあるかのようでもあるのは見過ごせない

この第2期で大きく時間が割かれているのは、A-RISEと戦い東京地区大会に勝つまでのストーリー、ここに多くの描写が割かれている。A-RISEからはっきりと告げられたライバル宣言は第3話。以降には星空凛、矢澤にこ、東條希、心の中に深い業を背負いながらも、グループへ強い愛情を持っていた3人のエピソードを経ることで団結が深まり、μ'sはA-RISEに勝利することになる。

それは、憧れの存在であり勝利不可能だと思えていた相手に勝利するストーリーラインでもある。しかも全国大会での戦いがほぼ20分程度の描写で終わっていることで、μ'sにとってA-RISEという存在がどれだけ大きな存在だったかが理解できるだろう。

こうしたμ'sの物語を描くために、ストーリー内ではサラっとした変化を忍ばせている。今作は日本の深夜アニメということもあり、他の作品と同列にしてみてしまうとこの変化に気がつくのは非常に難しいが、第1期と第2期を冷静に見てみると、コミカルな作劇と各話で中心になる人物をセンターにして挿入歌を歌い上げるという演出が非常に多くなっている。その見せ方は、ミュージカルやオペラやコミカルなお笑いといった演劇に似ていると言ってもいいだろう。

もしかすれば、同タイミングでアメリカで放送されていた『Glee』の存在を思い出すかもしれない。両者の関係性は~というと散々取り上げられたネタかもしれないが、成功を目指して奮闘し、悩みや悲しみをその身に浴びながらもなお前に進むストーリーラインは両者に重なる。

そういえば『ラブライブ!』第1期と第2期の変化を、第1期ではリアリティーあるアイドルだったが第2期ではそうではなくなった……という人もいる。そもそもアニメーションの世界に対して現実世界のリアリティーをそのままに接続するのは難しいとは思うが、第1期ではさまざまな悩みをこういった演出もなく作劇していたために、アニメ的作劇の少なさが≒リアリティーということにつながっているように思える。

その意味では、この作品はこの第2期シリーズにおいて、アニメ作品らしい振る舞いをようやくし始めたといえよう。第2期第1話、「雨やめーー?」の叫びが雨模様の天気を晴れやかにするところなどは、最高にアニメ作品らしい演出だ。自分たちの行く末が晴れやかになったという暗喩を表現したいのであれば、曇り空が晴れて太陽が出てくればいい。彼女が叫ぶ理由はないのに、もとい叫ばされているのは、「ここからはアニメ作品として振る舞うぞ」という宣言に近く、このポーズこそがまさにミュージカルとしての振る舞いそのものをメタファーとして示しているからだ。

また第2期では各話が彼女らは新たに唄(うた)を歌い、「自身の体験を音楽という形へと変換していく」ことになる、それは『Glee』はおろかミュージカルやオペラそのものだといえよう(もちろんだがここで『マクロスシリーズ』を思い出してみるのも面白い)。第2期におけるストーリーラインをまとめ上げる一曲として扱われているのは、第2期第9話のラストで挿入される『Snow halation』であろう、ファンとしてはエモくならざるを得ない。

こうしてみると、第11話においてμ'sの活動を停止する覚悟を決めて9人全員が大泣きするシーンですら、非常に演劇的なワンシーンに見えてくるのは皮肉なものだ。最終話、花陽が自身のケータイに流れてきたニュースに驚き、穂乃果の手を引いて走りだしたあたりからラストへと至る流れも、非常にミュージカルらしい。

「ラブライブに出場してどうなるの? もう学校は存続することになったんだから、出場したって意味がないよ。それに無理だよ、A-RISEみたいになんて、いくら練習したってなれっこない」

第1期最後でそう話していた高坂穂乃果の予想を超えるスペクタクル、かけがえない友達、いや戦友を得られた、それらを得るまでに経験してきた感情と成長こそ、彼女自身の否定を覆すことになったのだ。『ラブライブ!』第2期は<歌い、踊り、泣き笑い、永遠になるミュージカル>ではないだろうか?

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劇場版 ーなぜ?を突きつけることの勇気ー

アニメ第2期は、『自身の体験を音楽という形へと変換していった』μ'sがA-RISEに勝ち、全国大会で優勝を果たすというドラマツルギーがあり、μ'sを解散させることで9人の親密な距離感すらも永遠の思い出にしてしまう、そういった物語だ。

その裏で、高坂穂乃果の物語にどんどんと焦点が集まっていくことになる。彼女にとって、第2期における綺羅ツバサとの出会いは、自身の物語に大きな変調をもたらすことになる。この頃から彼女自身の変化が徐々に本格化していると言っていいだろう。彼女をスクールアイドルへと向かわせたA-RISEのリーダー、綺羅ツバサは彼女にとって憧れの存在になり、その人に目をかけられていることで彼女の心中は非常に混乱していると予想できる。

彼女高坂穂乃果の物語とは、彼女自身が周りの人間に影響されやすく……自分の行動軸がブレてしまうという癖にまつわる話だ。その点は、海未が第2期第1話にてはっきりと申し付けている。

海未「『また自分のせいで周りの人間に迷惑をかけてしまうのではないか?』と心配しているんでしょう? ラブライブに夢中になって、周りが見えなくなって、生徒会長として学校のみんなに迷惑をかけることはあってはならない、と」

彼女がスクールアイドルに出会ったのは、第1期第1話で妹からその存在があると告げられ、A-RISEと出会ったからだ、そこで生まれた確信をもってして行動したからこそμ'sは結成されている。メンバーのほとんどを穂乃果が声をかけ集めたが、グループ指針となる彼女は情熱のあまりに周りが見えなくなるほどに没頭してしまう癖がある(それは第1期ラストの体調不良の原因にもなっている)

表面的に見ると、彼女は周りを巻き込んでいくタイプの人間であり、むしろ彼女自身にはブレがないようにも見えるが、生徒会長に選ばれたのも「周りの人がすすめてくれたから~♪」と第2期第1話序盤に歌ってすらいる上に、綺羅ツバサから「今度うちの高校の屋上に新しくできるライブ会場でライブをしてみたら?」という挑戦的な誘いにも、即答で「やります!」と答えている。凛が代理リーダーとなった話も、絵里の提案を受けて凛にしようと決めている。

高坂穂乃果には、周りを巻き込みつつも一つの方向性に導くリーダー性があるが、他人が発する情熱や熱量に感化されやすすぎる人間でもあるのだ。

『ラブライブ!The School Idol Movie』(以下、劇場版)では、そういった彼女の成長と不安を中心にストーリーは進んでいることがわかる。いま申し上げた不安とは、前節でも触れた発言、「歌って踊れれば、それで……」という彼女の言葉を思い出してみれば大丈夫だ。今作劇場版で、彼女は唄(うた)を歌う理由を探すのだ。

というか、穂乃果の唄好きっぷりの尋常じゃない、第2期での卒業式の送辞シーンでは唄を取り入れるくらいだ。もしかすればこの卒業式送辞に唄(うた)を歌うというシーン、ギャグか何かだと思われている方も多いだろうが、少なくともこのシーンは、高坂穂乃果が大切な言葉を唄で届けたいと考えるようなシンガー気質な考えを持った人物だということを示す重要なシーンでもある

彼女と唄のお姉さんの会話を見てみよう。

「これでも昔は仲間と一緒にみんなで歌っていたのよ、日本で。でも色々あって、グループも終わりになって」
(穂乃果がそれでどうしたんですか?と問いかけて)「簡単だったよ。とっても簡単だった。いままでなぜ自分たちが歌ってきたのか?どうありたくてなぜ好きだったのか?それを考えたらとても簡単だったよ」

唄のお姉さんとの会話である。ここで穂乃果は「あのーなんかわかるようなわからないような、何ですけど」とその先をせかすが、彼女は「今はそれでいい」と突っぱねる。

その後、穂乃果は小さくつぶやくようになる、「何のために歌うのか?」と。

彼女が歌うためにはμ'sのメンバーや周りからの要請が必要であり、たった一人で自分の中からあふれでる情感に手を引かれて歌うことに若干の戸惑いがある、ことこの劇場版においては「自分の言葉を贈るべき相手とは誰なのか?」「なぜ歌うのか?」と自分に問うている。

僕はバンドマンやシンガーにインタビューし、音楽サイトに掲載してもらっている立場の人間だ。その立場の人間として一つ言えるのは、ミュージシャンではない人間が、ミュージシャンに対して「なぜ/どのようにして音楽をやっているんですか?」と聞くのは、あまりにも重く、キラークエスチョンになるということだ。

なぜならミュージシャン自身にとって、「僕は何のために、どんな作品をつくろうと思っているのか?」 そういった自己問答は自分自身の手で満足いく作品を作るために、ほぼ必ず通過する道だといえるからだ。青臭く思われるだろうが、その力点を外して作品を作ることなどできやしない。

逆に考えてみればわかる、「あなたはなんでその職業で金を稼いで飯を食べているですか?/なんでその学部で勉強しているんですか?」と問われれば答えを窮する人がたくさんいるであろう。彼らミュージシャンやアーティストも同じように、「なぜ、音楽を奏でるのか?」その問いと常に戦うことを避けられない立場なのだ。

つまるところ、<なぜ?>という自己言及は、自身のアイデンティティーを確認するためであり、自身をより大きく成長させるためにも必要であり、一歩間違えばパーソナリティーを壊してしまう劇薬にもなり得る、それは非常に勇気がいることだ。
穂乃果が自身と同じような出自を持つ相手と出会ってすぐさま教えを請おうとするのは、悪く言えばこうした自己言及からの逃げを意味しているし、助けを求めているといっても過言ではない。そこに救いの手を差し伸べるのが綺羅ツバサと唄のお姉さんの存在なのだ。

穂乃果「今はすごいたくさんの人が私たちを待っていて、ラブライブに力を貸せるくらいになって、(期待を裏切りたくない?)応援してくれる人がいて、唄を聞きたいという人がいて、期待に応えたい、ずっとそうしてきたから……」

綺羅ツバサらA-RISEから呼び出されて口から出てきた高坂穂乃果の独白には、自身の気質と自問自答の軌跡が刻まれている。再三再四申し上げるが、彼女は他人が発する情熱や熱量に感化されやすすぎる人間でもある。ことりの母、自身の妹、綺羅ツバサ、唄のおねえさんなどなどの言葉に揺り動かされる。

唄のおねえさんは、彼女に勇気を与える、「飛べるよ」と。その先で穂乃果は

「私たちはスクールアイドルが好き、学校のために歌い、みんなのために歌い、お互いが競い合い、そして手を取り合っていく、そんな限られた時間の中で精一杯輝こうとするスクールアイドルが大好き」

という境地に至る。

この作品の最後は、綺羅ツバサの提案を受けて全国から集ったスクールアイドルのみんなで一つの唄を歌うことで大団円を迎え、μ'sは解散することになる。高坂穂乃果はきっと唄を歌うことを心から望んでいる人間なのだ、彼女は彼女自身をそう捉えたからこそ、これらの判断を下せる、それは第1期第1話の高坂穂乃果ではありえないであろうことだ。同時に、劇場版終盤で語られるこの言葉によって、『ラブライブ!』とはμ'sの物語ではなく、スクールアイドルとしての物語へと明確に隔てられることが宣言されているのも忘れてはいけない

綺羅ツバサと唄のおねえさんは、高坂穂乃果の自己言及を手助けし、彼女自身の成長を促した。「何のために歌うのか?」その解答を彼女が生み出すまでの物語が、今作には通底していたといえるのではないか? そして劇場版のラストのメッセージは「『ラブライブ!』を愛する人のために」向けられているのを忘れてはいけない。劇場版とは、なぜ?を自分自身に突きつける勇気についてを見る者に示したのかもしれない

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補論 ー現実世界をメタファー化した『ラブライブ!』ー

スタジオジブリ代表取締役・鈴木敏夫さん、虚淵玄さん、押井守監督による対談のなかで、彼ら3人は

押井「この15年でこの国からファンタジーという『物語』が消えた。 今は誰も『物語』を作ろうと思わない。誰も必要としていない。アニメだけでなく映画もそう」
「最近のアニメファンは作られたキャラの方にみんな行っちゃってそのキャラと永遠に付き合いたいとなってしまっている」
虚淵「『物語』を描くよりも『キャラクター』に一気に比重がいった」「昔は『終わらないこと』に恐怖を感じていたが、今は『終わらせること』に恐怖を感じている」
(参考 http://podcasts.tfm.co.jp/podcasts/tokyo/rg/suzuki_vol425.mp3

とまで評されている。それは確かにその通りなのだろう。だがして、μ'sの物語は終わりを迎え、作品自体は次作へと繋がっている。『ラブライブ!』はどう据え置けばいいのであろう?

この映画版、ひいては『ラブライブ!』全般をいま一度、今度はこれまで筆したものとは違った角度から考えなおしてみてみよう。

音ノ木坂学院があるのは、神田―秋葉原―神保町の間にあると言われている。この三つの場所を選んだ理由を、僕は制作関係者の話として聞いたことも読んだこともないが、この三つの場所についてはよく知っている、ここは日本の文化が集まっているゾーンだ。

神田はいまだ世界有数のビジネス街でありビジネスカルチャーが漂う街だ、神保町は日本随一の古書街があり、近くには全国有数の楽器街として名高い御茶ノ水が隣接している、秋葉原は昔は電気街として栄え、現在ではアニメ/二次創作/美少女キャラクターカルチャーの中心地だ。

妄想的で大胆なメタファーを、誤解を恐れずに広げてみよう。

そういった場所に学校があるというのは、学ぶべき<何か>があり、そのために人が集まるということだ。ビジネス/古書(広く見れば文芸)/楽器(これも音楽として見てみよう)/アニメ、どれも単一の世代にとどまらず幾重もの世代によって受け継がれていくカルチャーである。秋葉原と神保町と神田は非常に距離が近く、これらの文化がほぼ隣接していることに気づけるだろうか、これはまぎれもない事実であり現実だ。

音ノ木坂学院は神田―秋葉原―神保町を暗喩し、学校(これらの文化)が廃れるのを防ぐため、多くの人を集めてより一層の活性を目指していく……そんな啓発的かつメタフォリックな作品として受け取れてしまうのが今作『ラブライブ!』なのだ

結果的に『ラブライブ!』は、アニメ作品としては言うに及ばず、音楽作品として多大なインパクトを残し、文芸作品としても漫画作品や小説が随時発表され、二次創作としての作品数は、おおよそ2010年代生み出された元ネタとしては随一の数を誇る、当然のことながらもビジネスへの影響も数字以外の面も含めてかなり大きいであろう。

僕は第1期を<つかんだキミの手を離さないRPG>と、第2期は<歌い、踊り、泣き笑い、永遠になるミュージカル>と評した。こういったストーリーラインは日本ゲーム文化のメタファーに思える。日本におけるRPGが「役割を演じるゲーム」という本来性から遠く離れ、ヒロイック・ファンタジーへと変質していったという変遷を、この作品は端的な形で示しているように思えるのだ。個々人の特徴と個性を示しながら、一つの物語のためにスポイルされているさまは、現代日本の批評上における「物語への欲望」としてまざまざと示してしまってもいる。

それでいて劇場版においては、<μ 's が世の中を驚かせている>という認識でストーリーは進む。映画化前後でもすでに世の中がμ'sやラブライブという存在に驚かされていたのを鑑みても、「日本のオタク文化、ひいては日本における多様な文化を外に発信し、受容させ、波及していくことは面白いことである」そんな裏のテーマを忍ばせている作品だと言えるのではないだろうか。

このような壮大なテーマや志向性は、おおよそ2010年の企画初期では想像もしていなかったろうし、アニメ第1期ですら見えていなかったはずだ。第2期における作劇演出のドラスチックな大変化、演劇的/ミュージカル的な場面演出と青春性ともいえよう刹那主義に振り切ったストーリーには、この裏のテーマを立脚するためのアーキテクチャとして、あるいはひた隠すための布さらしとしての役割があったように読み解ける。

ことを次作の『ラブライブ!サンシャイン』に広げてみると、あのアニメ不毛の地とも言われた静岡が『ラブライブ!』の土地に選ばれたのも、この点を認めればかなり納得がいってしまう。『ラブライブ!』が持つ強烈なアニメパワーで静岡にスポットライトを当てたい!あるいは静岡という場所の魅力を引き出そうという視座を僕には強く感じる。なにせ、初出の宣伝キャッチコピーは「助けて!ラブライブ!」なのだから

『ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル』にも目を向けてみれば、μ's以外のアイドルも顔を出している、確かにカード単体としてみると能力は低いが、μ's以外の存在を示唆するに十分だ。特に今作で重要なのは、これまでの楽曲をプレーヤーがリズムに合わせてタップすることで、疑似的にだが『μ'sとファンが音楽を通じて一緒になる』ことが達成されていることだ。

これは、日本のゲーム文化ー音楽文化ーアニメ文化(ないしはキャラクター文化)が、ある種高次元なところで一つになったものだと考えても良いだろう。

なぜ『ラブライブ!』はμ'sを解散させたのだろうか?「μ'sを解散せずに大団円! 解散もしないでみんな幸せに笑顔なままで活動を続けましたとさ!」ということでいいはずなのに、μ'sを解散する末路までもしっかり描いていた、そのストーリーラインにもつながっていく。

これは翻ってみると「この瞬間に全てを詰め込む」という高坂穂乃果的思考になってしまったプロデューサー/監督の手腕ではなく、『ラブライブ!』がμ'sと分離し、独自の物語……<日本のオタク文化、ひいては日本における多様な文化を外に発信し、受容させ、波及していくこと>に向けて歩き始めているのをひしひしと感じられるだろう。

劇場版のなかで、星空凛が「この街(ニューヨーク)は秋葉原に似ているんだよ!、楽しいことが一杯で、次々新しくと変化していく!」と話し、メンバーが同意するシーンがある。ニューヨークと秋葉原のリンク性を解くこのシーンは、文化更新の最先端という意味で非常に重要であろうし、この言葉が『ラブライブ!』から出てくるというのも非常にピタリと合っているように思える。

今作ならびに制作スタッフの意識はすでに、日本という枠組みを超えて、世界を捉えていてもおかしくはない。『ラブライブ!』の物語は、今のところ終わりはないようだ。

そしてはっきりと申し上げたい。この大きなムーブメントを現実的に担ったのは、μ'sの9人だけではなく、『ラブライブ!』を通してこれらの文化に触れ、もといこの学校に入学した人たち。このような本を手に取って『ラブライブ!』というムーブメントに参加/入学した人々こそが、大きな影響力をもたらしているということを。


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