『聖なるズー』から考えるコミュニケーションのあり方

濱野ちひろ著『聖なるズー』を読み終えた。ズーとは動物性愛者のことである。ズー自体に関しては、そういうセクシャリティの人たちがいてもおかしくはないなと思った。というのも本に登場するズーの人たちがとても繊細で、人間的にもいい人たちなのでそう思ったのかもしれない。

むしろ興味を持ったのは、ズーたちが動物たちの気配を常に気にかけていて、彼らが何を望んでいるかに常にアンテナを張っていることだ。動物たちは当然言葉を話さないから、彼らが何を望んでいるかは、その気配を良く感じていないと見逃してしまうからだろう。これが人間相手だと言葉があるので、逆に気配をそれほど気にしていないように思うし、むしろ気配をずっと気にしているとかえって居心地が悪くなるだろう。でもズーたちは、そのパートナーのことを気にかけながらも、居心地が良さそうである。

しかし、ズーたちも人間同士のコミュニケーションには当然言語を使うわけで、そこに葛藤を覚えることもあるようだ。何が言いたいかというと、人間同士も本来はズーとそのパートナーの動物のように言葉なしでコミュニケーションしていたのではないだろうかということだ。

言語があることで人間は進化してきたのだが、そのことによって近くにいる大切な存在のことを言葉を通してしか理解できないとすれば、とても残念である。仏教における瞑想も今ここに集中するというが、ズーたちはそのパートナーの関係で、日々それを実践しているようでもある。親しい人間同士でもズーとそのパートナーのようにお互いの望むことを察しながら、言葉で補っていく関係を築き上げられたら良いのにと思う。もちろん察するというのが空気を読むという意味ではないのは言うまでもないが。

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